名前で呼んでくれること
甲高い声が聞こえる。
それは笑い声だったり、泣き声だったり、どなり声だったりするけれど、いずれもイセリアに一つだけある、学校から聞こえるものだった。
散歩で学校の前を通る時、いつもにましてその声が耳に響いた気がした。
「明日からコレットもここに通うんだよ」
やさしい口調でお父さまがいってくれる。
「……コレット?」
「あ、え、楽しみです」
お父さまが笑いかけて、つないでいた手を引っ張る。
「じゃあ、帰ろうか」
「はい」
明日から学校。
イセリアの子供たちは、7歳になったら学校に行くことがきめられている。それは神子の私も例外ではない。
学校に行けば、いろんなことを覚えて、いろんなことをして……。それが、私にとっては、幸せでもあり、不幸なことでもある。
いきたくない……。
おもわず呟いてしまった。
そう、明日は誕生日。こんなに嬉しくない誕生日は初めて。
もともとそんなに嬉しいものじゃなかったのだけれど。
16歳。あと9年。あと9年でこの世界に別れを告げる。
9年間で、できるだけ思い出を消して、9年間でできるだけ……どうしようか。
私はこの世界は嫌いじゃない。
私はそんなに村から出ていったことはないけれど、このイセリアは文句なしにいいところだ。みんな私を応援してくれる。
それに人間牧場でディザイアンが人を苦しめていることだって知っている。
救ってあげたい。
みんな、わたしが世界再生することを、望んでるんだもん。
だから、世界を好きになれば世界再生を行いたいという気持ちになるけれど、未練だって残すことになる。
複雑。明日から学校。それは思い出を消したいという願いに反すること。それは世界を好きになってしまうかもしれないということ。
どうしよう。好きになりたいけど、なりたくない。思い出を消したいけど、消したくない。
相反する気持ちが高ぶって、なんだか憂鬱。
どうしよう。本当に、どうしよう。
翌日。
「神子、コレット・ブルーネルさんです」
黒い髪の背の高い先生がそう言った。ティーナ先生と言うらしい。
「よろしくおねがいします」
可愛いっていうつぶやきが聞こえて、うつむいて顔を赤らめる。
「じゃあ席について下さいね」
後ろから2番目の席。この席なら目立たないかもしれない。
じゃあ大人しく授業を受けよう。
「はい、体育ですよーお外に出て!」
「わーいわーい!」
はしゃぎごえをあげながらこどもたちがでていく。
私も出て行こうかと立ち上がったらティーナ先生が急にわたしに言う。
「み、神子さま! いけませんよ、体調を崩してしまうかも……」
「でも私、体は弱くないですよ……?」
「さっきこけていたでしょう?さ、お絵かきしましょうね。いい絵が描けたら先生に見せて下さい」
紙を一枚とクレヨンを渡されて、私は棒立ちになっていた。ティーナ先生もみんなも出て言って、私は一人になった。
「やっと一人になった……」
クレヨンを握りしめて席に座る。真っ白な紙を見つめる。何を書こうかとか、なんにも浮かんでこない。
ただ、ひとつおもう。
──案の定、みんな話しかけてこなかった。
よかった、これで私は神子として未練を残さずに……
なんだか目の奥が痛くなって涙があふれてきた。
やっぱり悲しかったんだ。
誰も話しかけず、わたしも話しかけない。
でも当然だよ。私、神子なんだもん──!
「チェッ!」
「えっ」
ドアが開く音とともに、明らかに不満であることを示す声が聞こえてきた。
鳶毛の変わったつんつん頭。赤いパーカーを着ている子。
確かこの子……?
「ロイドくん……?」
「ったくなんなんだよー宿題してないからって。体育も授業なんだからやらせろよー!」
彼は投げやりにそう叫ぶと、こっちに気が付いたようだ。
「あ? 新入生の……コレット? なんでお前ここにいるんだ?宿題忘れたのか?」
「えっ? だって……私今日転校してきたんだよ?」
「あ、そうだよな。んなわけないか。じゃあなんでだ?」
「ティーナ先生がいうには、体調を崩すかもしれないからだって」
「体調…崩す? どういうことだ?」
「え? あのね、病気になっちゃうってこと。私そんなに体弱くないと思うんだけどね……」
「余計なお世話ってやつか? ティーナ先生、なんでも決めつけるし、俺あんまり好きじゃねえなー。新しい先生こないかなぁ」
「え、そ、そだね……」
なんであなたはそんなに自然に話しかけてくるの?
そういいたくてたまらなくて、彼にむかって口を開いては、ためらって閉じる。
何気ない会話が、痛い。
「そうおもわねえか?」
最終的に閉じた口。ゆっくりうなずいた。
「……よし、コレットー」
意を決したように彼が私に呼びかけた。
なんだか心が、変わった。
「コレット?」
いきなり呼び捨て。無礼極まりないことだって、習った。
天使用語の他にも、礼儀は結構きっちりおばあさまから習っていた。
呼び捨ては、なれなれしくて、人を不快にさせるって聞いた。
おかしいよ、おばあさま。
こうやって接するのは痛いけれど、
でも、
「神子さま」じゃなくて、「コレット」って、名前で、神子ではないという意味で呼ばれると、
なんだか
心が宙に浮いたみたいで、心地よい。
「なあに?」
極上の笑顔で応じたくなる。
そうしたら、また思い出が、未練が増えるだけなのにね。
「体育行こうぜ。先生を無視するのはいけないかもしれねえけど、でも、コレットは体弱くないんだろ?なら出ても大丈夫じゃん」
「そうだね。でも、一応言われてるから」
ロイドが短くそうか、と返事をする。窓を覗き込むと、うれしそうに叫んだ。
「おっ、ティーナ先生居ない! どこいったのかな? まあいいや、コレットは……?」
私が首を横に振ると、彼は少しまゆをひそめたが、すぐに屈託のない笑みを見せて、手を振った。
「今のうちにいってくる! じゃあな! おーい、いれてくれよ!」
彼は学校の外にも手を振って、窓から離れた。教室から飛び出して行って、わたしは一人ぼっちになった。
痛いはずだよね。
こうやって、嬉しいことがあるたびに、わたしの心は「喜び」と「痛み」を同時に生むのだ。
だから今私は痛い。
痛いはずなのに、なんだか、それでも心は宙に浮いて、ひとりでに喜ぶ。
なんだろうこの感情?
名前が見つからない。
この感情は、あなたに教えてもらったの?
そう思って教室に目を向けるけど、当然のように彼はそこにいなかった。
私は黙りこんでクレヨンを動かした。ほぼ無心だった。
そこにできたのは、あの時笑って手を振ってくれた、鳶毛の少年。
ぐちゃぐちゃだったけど、私は、やっぱり満足だった。
なんで、あの時彼を描いたのかを悟るのはまた後の話。
「さあ、帰ろうか? それともちょっと散歩する?」
「散歩したいです!」
「そうかそうか。じゃあ、村の中を1周しようか」
学校に迎えにきたお父さまが穏やかに言う。
世界を目に焼き付けておこう。
そうおもったのは、使命を知った次の日から実行したことだった。
自分が救う世界、自分の目に留めておかなきゃ。
そうもおもった。単純な考えだった。
ふいにとなりを私と同じ下校中の子供たちが走り抜ける。ほぼ全員だ。
いつのまにか彼を目で探す。見つけることは出来なかった。
──ならまだ学校にいる?
お父さまの手のひらをわたしの手がすり抜けた。
「コレット!」
お父さまの声が私の耳に届くころ、すでに私が学校に向かって走っていた。
まだ学校にいるのかもしれない。なら、会いたい。
確かにあのとき、私は自分が神子であることを忘れていた。
息を切らして飛びこんできた私にティーナ先生はすごく驚いていた。
「まあ! どうしたんですか!」
「……あの、ロイドくんは……?」
ティーナ先生は渋い顔をした。
「ロイドは、一番に帰りましたよ。変な魔物に乗って……」
「変な魔物?」
「それより、神子さま、あなたロイドの絵描いてたみたいだけど……いつの間に仲良くなったの?」
「な、仲良くなったっていうか、話しただけなんですけど……」
「悪いことは言わないわ。あまりかかわらない方がいい。異端の……ドワーフに育てられたなんて、何覚えてるかわからないんだから」
異端?
異端だから?
異端はいけないことなの?
そうなの? そうなの?
でもね、わたしのこと神子として接しなかったの、彼が初めてだよ。
コレットって呼んでくれるの、あんなに気持ちいいって思わなかった。
お父様にはいつもよばれてるのにね。
なんでなんだろう。
「……レット、コレット!」
誰かに呼ばれて、わたしは我に返った。
「どーしたんだよ。急に動きが止まるから、何かと思っただろ」
「あ、なんでもないよ」
ロイドが手を腰に当ててため息をついた。双眸が揺れる。
「またボーっとしてたろ。なんか心配事でもあるのか?」
夢? なんだろう、急にあの時のことなんて思いだして。
でも、またロイドは私を呼んだ。私だけの名前で。
「なんにもないよ」
今度こそ、極上の笑顔をむける。
心配なんて、何もない。
あるとすれば──!
あなたが私を呼ぶ。
その声を失うこと。
それは、いや。
ロイドが私を「コレット」って呼んでくれる限り、
私はそのこえに応じてみせるよ。
だから、また、私の名を呼んで。
おねがい、だから。