愛想笑いは届かない
痣ができていた。
左肩に。
痣の様子は、一般的な青紫に腫れた、というより青緑を薄めた色の絵の具が塗られているというほうが正しいのかもしれない。
宿屋、一人部屋で服を少し緩めて左腕を襟の部分から出すと、それがよくわかった。
変な色だった。
「なんだろ、これ」
どこに何がぶつかってできた痣なのだろうか。
見覚えのない痣。
いつの間にかひっかき傷があった、とロイドがどこか自慢げに話していたことを思い出す。
でも、彼女は女性で、身体にできた外傷の証を自慢しようとも思わない。
しばらくしたら、消えるのだろう、と思っていた。
──おかしいよ。
最近戦闘は後方支援だけだもん。肩にぶつかってできるようなこんな痣、あるなんておかしいよ。
心の声には耳をふさいだ。
天使の聴覚は心には関係ないはずなのに、いやなほどよく聞こえた。
おかしかった。
痣がおかしいわけではない。私がおかしかった。
間もなくコレットの痣の上に変な紋章ができ始めた。
触ると固い。そしてひんやりしている。生きている感覚がしない。
気持ち悪い。
初めて痣を見つけた時のように、服を緩めて肩をむき出しにする。
日に日に増えてゆく。
気持ち悪い。
毎日宿に泊まるごとに、痣を確認した。
毎日増えていた。
変な紋章がぶつぶつとできる。
気持ち悪い。
虫唾が走った。自分の体の部品なのに。
気持ち悪い。
変だ。
相談しようと思った。そう、相談しようと思ったのだ。
先生なら、痣を消せるかもしれない。テセアラの単なる病気かもしれない。
服の上から触れば凹凸が感じられるほどに成長してしまったその痣を、誰かが治してくれるのなら、それでいい。
そうだ、そうしよう。
「明日、先生に相談してみようっと」
一人っきりの部屋で口に出してみたけれど、本当のところ、それを行動にできそうな気はさらさらしなかった。
理由だってわかっている。
でも彼女は、まだ心に嘘をついている。
嘘をつけているつもりでいる。
あ、駄目だね。
思わず口走りそうになった。
左腕が震えてうまく動かない。いつも通りチャクラムをぶつけたつもりでも、どこかその戦輪には威力がなく、
敵の頭を貫通し、少しゆらゆらと左右に揺れたかと思うと、失速し、その場で音を立てて転がってしまった。
そのせいでか、何の支障もないはずの右腕もなんだか調子が悪い。
魔物がみな消えて、コレットは左のチャクラムを拾い上げた。一瞬眉が潜まる。
と、タイミングを見たかのようにロイドが、こっちに歩み寄ってきた。
鳶色の髪が柔らかく揺れ、ロイドの顔に影を作る。
「コレット、大丈夫か? 調子悪いんじゃないか」
「だいじょぶだよ〜手元が狂っちゃっただけだもん。えへへ」
そんなわけはない。
「そうか? ちょっと顔色も悪いぞ」
「そうかな? すごく元気だよ」
そんなはずもない。
ロイドは曖昧に頷き、微笑んで、踵を返した。
大丈夫でも、元気でもない。
拾い上げるとき、左腕のさらなる違和感に気がついた。
右手で労わるように触ると、それは決定になった。服の中をのぞくまでもない。
「肩の痣」は、「腕の痣」になっていた。
私は、もうだいじょぶじゃないと思う。
コレットが自分の中で出した結論だった。また一人きりの部屋で痣を確かめていた。
普通の病気じゃないのも、わかる。こんなときだけ勘が冴えているようだった。
でも、ロイドには何の心配もない。ロイドは何もしなくていい。
やっぱり、やっぱりといっても、結局今日も言おうとしなかったけれど、誰にもこれが言えるわけがない。言わない。
私の腕の紋章は、どこかエクスフィアと似た色合いと形状をしていた。
クルシスの輝石のせいなのか。ロイドがくれた、要の紋をつけているのに?
もし、私の予想が当たっていたときに、ロイドは後悔するんじゃないだろうか。
私はこのペンダント、すごく好きなのに、それをくれたこと、後悔して傷ついてほしくない。
………それさえも嘘のような気がする。
本当は、気持ち悪いから。
自分でも、こんなにも、奇妙で怖くて気持ち悪いのに、ほかの人がそう思わないわけがない。
それを私も責められない。だって、本当に、気持ち悪いんだもん。
肩と呼べる領域から出てしまったその痣は、日に日に成長しているようだ。
なのに、生きているような気がしない。
痣が生きるというのも不思議だが、それでも生きている者に取り付いている以上、
その体温を、
その栄養を、
その存在を糧にしているのだから、生きている者の一部分なのだから
すこしぐらい生気を放ってもいいと思う。
いつ触れても、湯上りでも、砂漠の中でも、その痣は冷え切っていた。
気持ち悪い。
生きている者の、一部分じゃないとしたら──私が生きていないんだったら、
その答えも出るんだけど。
コレットは一瞬そんなことを考えたが、かぶりを振った。
ロイドが、生かしてくれたじゃない。
テセアラまで来て、救ってくれたのに、生きてないなんて思っちゃいけない。
だからこそ──だから、
気持ち悪いだなんて思われたくなかった。
ロイドは優しいから、否定してくれるよね。
だけど、本心でどう思うかまでは操れない。優しさで感性を制御することなんてできない。
コレットはもう一度紋章を少し強く押してみた。
固かった。
どんなに掻き毟っても、叩いてみても、何も起きない。
そのうち、どうなるのだろうか。
「腕の痣」が、「手のひらまでの痣」になり、「左半身の痣」になり、首にまで伸びて…
そうなると服の中から出てきてしまう。
気持ち悪いと、思われるだろう。
首ならまだ、首当てを付ければごまかせる。だが、顔は?
そのころには、もう体が思うように動かせなくなっているかもしれない。
迷惑をかけてしまう。
一番恐れていたことなのに。
せっかく、少しずつ、神子じゃなくて、私として、ここにいたいと願い始めていたのに。
涙が出そうになるだけ、天使になる前よりましだった。
あの頃は、もう涙さえ出てこなかった。
「コレットー」
どことなく間抜けな声が彼女の名を呼んだ。コレットは慌てて左腕を袖に通した。
「ロイド……!」
「入るぞ」
少々荒っぽくドアを開けて、入ってきたのは不機嫌そうにふくれっ面をしたロイドだった。
ベッドの上に座っていたコレットは、どうしたの? と首をかしげる。ロイドは何も答えない。
何が不満なのだろうか、全く予想がつかない。しばらく黙っていても、ロイドも何も言わなかった。
「どしたの」
「俺、怒ってるんだ」
コレットの目の前の床で胡坐をかいて、ロイドは頬杖をついた。
「だ、誰に怒ってるの?」
「コレットにだよ」
彼女の部屋に来たのだからそうなのだろう。
ロイドは愚痴を言うことはあっても、わざわざ人の部屋にまで悪口を持ち込んだりはしない。
「何に、怒ってるの?」
恐る恐る質問をすると、ロイドはコレットをキッと睨んだ。身じろいでしまう。
「……どしたの、ロイド」
「また嘘をついただろ!」
思い当たることを、ついさっき考えていた。目が泳いでしまう。
「えへへへ…なんにもないよ」
愛想笑いは嘘の証。
自分でも、ロイドから聞いていたのに。
ロイドは、先ほどの目つきとは一転して、情けないほどに眉尻を下げた。
「一人で、背負ってないよな? 大丈夫なんだよな」
縋るような、というのが一番ふさわしいのかもしれない。
「だいじょぶだってば、えへへ、えへへへへ…」
ロイドと遊んでいて咎められたのを、なかったことにしたこと。
神子として世界を救うために「早く天使になりたい」と言った──これは未練を捨てるため、という意味では半分本当だが──こと。
嘘は何度も付いてきて、おそらくそのたびに彼女は愛想笑いを繰り返してきたのだろう。
自覚はない。でも、このときの愛想笑いの度合いは酷かっただろう。
何度も言うが、自覚はないのだから、コレットは憶測でこれを話している。
ロイドが言うように、自分が嘘を吐くと愛想笑いをするのであれば、
この一つの「大丈夫」で、いくつの愛想笑いをしたことになるのだろう。
大丈夫ではない。
怖い。
死んでしまうかもしれない。
死ぬのかさえもわからない。
どうなってしまうのか分からない。
怖い。
大丈夫なんて要素、彼女の中には何もなかった。
しかしそれ以上に、
彼に気持ち悪がられるほうが、ずっと怖い。
今すぐロイドに悲鳴をあげて、助けを乞いたい。
しかし、そうすれば、どう転がってもロイドは痣を知ってしまうだろう。
彼に気持ち悪がられるほうが、ずっと怖い。
この気持ちは本心だ。
愛想笑いだって、いつもいつもしているわけではないだろう。
嘘本当関係なく、愛想笑いだってしたことがある。
しかし、ここまで愛想笑いをしたとなれば、怪しまれないわけがない。
追及されるだろう。
そうしたら、ロイドに見られたくない一心で、この部屋を飛び出してしまいそうだ。
目の前のロイドはコレットがした、どの予想にも反して、
あからさまに嘘だとわかるその言葉を、そうか、と素直に受け止めた。
「おやすみ。変なこと言って悪かったな」
ロイドは来た時とは比べ物にならないほど屈託なく優しく笑い、
その笑顔の余韻を残したまま部屋を出た。
ロイドはどんな意図で、嘘を嘘と言わなかったのだろうか。
でもとりあえず、怪しまれていても痣のことがばれるまでには至らないだろう。
左肩を抱きしめて、コレットは歯を食いしばった。
ロイドに嫌われたくない。
ロイドに嫌われたくない。
だから──ごめんね。
左手でベッドの上にあった、小ぶりの枕を取り上げる。
ロイドが閉じていったドアに向かってチャクラムの要領で投げつける。
勢いが空気の中に吸い込まれて、床に気の抜けた音を立てて落ちる。
ドアに届きさえしなかった。