美しく優しい嘘が尽きるまで
マルタは窓の外を眺めていた。
まだ薄暗いのだが、もう二時間すれば夜はあけるだろう。
明日──朝になったら一行はイセリアのマーテル教会大聖堂に出発、ラタトスクの人格を封じてもらうことになる。
エミルはどうなるのだろう。
決戦を経て、ギンヌンガ・ガップを出て彼は、今のままでいられるのだろうか。耐えられるのだろうか。
何か支障が出たりしないのだろうか。己が精霊だという事実を明かすのだろうか、秘めるのだろうか。
魔界の扉を閉めて、彼は、私たちは、今のままでいられるのだろうか。
不安に潰れてしまいそう。
ため息をひとつつくと、同時に欠伸が漏れ出た。
身支度を早めに終わらせたが、それでも少しだけ眠ろうか。
そう思いながらベッドに潜り込もうと背を向けかけて──目の端に何かを見た。
「エミル……」
機敏にエミルが窓の外、救いの小屋の外へ行くのが分かった。
「エミル?」
こんな時間に──何を、しに行くのだろう
マルタは迷わず部屋を飛び出していた。
救いの小屋を出ても、外は静かだった。魔物さえ眠りについているのだろう。
マルタはエミルの影がないと分かると、踏み出しかけて、やめた。
この広いフィールドのどこにいれば見つかるというのだろう。
しかしこのままずこずこと引き下がりたくはない。
唇をかみしめて踵を返したその時、エミルを視界にとらえた。
「エミル!」
時間帯を考慮しない大声で呼びかけたが、エミルの背中は救いの小屋へ進むだけだ。
マルタは小走りで近づく。
「何処に行ってたの? こんな時間に」
エミルは足を速める。マルタも追い付こうと迫る。
そしてマルタの手のひらがエミルの肩に触れた途端、エミルはめまいを起こした時のようにカクンと膝を落とした。
マルタは驚きに身をすくめる。力といえないぐらい小さな力でエミルがバランスを崩したように思えたのだ。
「わっ」
「……マルタ?」
振り返ったエミルは少し眠たげな眼でマルタを見つめていた。
マルタは手を引っ込めた。
「無視しないでよ、もう。もう朝なのに、どこに行ってたの?」
「え? ………外」
エミルが聞こえるか聞こえないかぐらい小さな声で呟いた後、動揺して辺りを急に見まわし始めた。
「あれ? 寝てたはずなのに……おかしいな」
「寝てたって……その服じゃない」
エミルの服はいつものラタトスクの契約の時に授かった戦闘装束だ。
エミルは自分の服を見て、周りを見て、マルタを見て、救いの小屋を見上げてから、またマルタを見た。
その瞳に困惑の色がはっきりと浮かんでいることが、マルタからも見て取れた。
「覚えが、ないの?」
エミルは肩を竦めかけて、一瞬だけ、人形のように顔色を白く青くした。
それから、思いだした、と大きな声で言った。
「ちょっと、見まわってこようと思ってたんだ。忘れてた」
マルタの返事も聞かずに救いの小屋の中へ消えていく少年の背中はすぐにドアにより遮られ見えなくなった。
マルタは何も言わないままだったが、ドアが閉まった瞬間叫んだ。
「知ってるよ!」
ドアの奥のものがびくっと竦む様子が外に立っているのに、分かった。
「………その時の記憶がないんだよね?」
その唇から洩れでたような小さな声が、聞こえたとは思えない。でも十分だった。
「出てきて」
その呼びかけは確実に聞こえているのだろうが、エミルはなかなか出てこなかった。
が、部屋に戻る音も何もせず、ずっと動かないでいるようだった。
みんなもうすぐ起きてきちゃう。ずっとこのままだったらどうしよう。
そう思い始めた時、ドアが開いた。
ものすごく険悪な表情をしたエミル、正確には主人格のラタトスク。
無論、そう呼んだり考えたりすることは酷く重いことだけれど。
「エミルが来てくれなくて悲しいって顔してんな」
他人の傷口を笑顔でえぐっているような、そんな声。
マルタの体は知らぬ間にこわばっていた。
「そんなこと、ない。君、最近戦闘の時しか出てきてくれないから」
「これから自分が封印されに行くってのに、出てきてお前らに何を話せと? ──それは今も同じだ」
「じゃあ、何で出てきてくれたの?」
何気ない返しのつもりだったが、今のエミルにとっては逆鱗に抱きつくようなものだった。
エミルの嘲笑が激昂に変わった。
「てめぇ、人様に大声で出て来いって訴えときながらなんだそれは!」
「え……違うよ、そういう意味じゃないよ」
「じゃあどういう意味なんだ言ってみやがれ!」
「私……」
エミルが叫ぼうと息を吸った瞬間にマルタは遮るように怒鳴った。
「私、嬉しい!」
声色には、嬉しさなんてかけらも含まれていなかった。
「……私、君が出てきてくれて、嬉しい、よ」
マルタの声にエミルは目を丸くして硬直していたが、すぐに嘲笑に戻った。
「出てきて嬉しい奴を封印する馬鹿が何処にいるんだ」
マルタは知っていたのか、とでもいうように息をのんだ。
エミルはふんと鼻で笑う。
「それはお前がお前を誤魔化しているだけだ」
「そんなことない………あなたもエミルだもん」
「じゃあ何で俺だけを封じる?」
エミルは試しているようだ。
マルタは一瞬言葉に詰まり、その隙にエミルはまくしたてた。
「てめえらはいつもそうだ。エミルだとかそうじゃねえとか。あいつはいつだって俺に全部押し付けてんじゃねえか! なのにいい人面で守る戦う言って、あいつは何もやってねえ、恐怖にビビって俺に全部任せてるじゃねえか。全部俺だ、俺がやったことだ。死の危険も魔物を殺す感覚もこの体も人格も全部俺の物だ。なのにてめえらは俺を封じようとして、あまつさえ消そうとしてんじゃねえのか! あの偽善者に俺を渡そうとしてんじゃねえか! 俺は精霊だ、お前は、お前らは──俺の宿り木を奪い、次は俺の宿る体、精神そのものまで消すつもりか!」
それは盛大な僻みの宣言にも聞こえた。
それは降り積もった憎しみの叫びにも聞こえた。
でもマルタはこれを、彼の悲鳴なのだと思うことにした。
「………わかんないよ」
エミルは一瞬、昼間見てもぎょっとするような形相になった後、ふっと表情を緩め、救いの小屋に入っていった。
おそらく普段のエミルに戻ったのだろう。
そして怖くなる。
私、エミルがどうなるかしか、考えてなかった──?
──「心の中にもう一つの人格があったってエミルはエミルだよ!」
──「人格が一つになると、エミルの記憶はどうなっちゃうの」
「わからぬ。存在の強い方が残るのか、混じり合うのか……」
「そ……そんな……。それじゃあ、エミルに死ねって言ってるようなものじゃない」
(もう、エミルがひとつだって、分かった。エミルともう一つの人格は、ラタトスク)
(ラタトスクはラタトスク。エミルじゃない。──私が愛した、エミルじゃ、ない?)
ラタトスクモードのエミルじゃなくて、いつものエミルだけになればいい、だなんて、思ってた?
自分の何気ない言動がフラッシュバックする。
鳥肌が立った。
もう日は出かけているのに、急に夜になったかのような、寒さだった。
どうする──エミル──ラタトスクは考えていた。
今、皆、起きている気配はない。
疲れているのだ。
なら、自分が封じられ、やがては消えなければならない。
簡単なことだ。
殺せばいい。
ここにいるのは、ヒトだけだ。
殺せばいい。
お前らが大樹カーラーンを滅ぼしたのだ。
殺せばいい。
ならお前らが滅ぶのも、また道理。
殺せばいい。
「……テネブラエ」
「はい」
すぐ傍らに現れる。
テネブラエは少し悟ったような眼をしていた。
この宿主の体を脱ぎ捨てれば、精霊としての本来の力が出せる。
いや、この体だけで十分に力が発揮できるだろう。
センチュリオンを従え、使うことができれば、それは簡単なことだ。
少し武装したヒトどもなど。
「……ラタトスク様」
テネブラエが静かに言う。
「なんだ?」
「お言葉なのですが──」
すぐ後ろのドアに視線を向けた。
「彼女は生かすのですか?」
ラタトスクの息の呑む音が聞こえるようだった。
「意味がわからないな」
「マルタ様です。外にいるではありませんか。彼女から殺した方が、手っ取り早いのでは?」
「もう中に入った。あいつは中の異変にはそう気づけない。ここの中にいる奴全員殺してから、マルタを殺す」
ラタトスクが踏み出そうとすると、さらにテネブラエは冷たい声で問い詰めた。
「マルタ様をあわよくば逃がそうと思っているのではありませんか? あなたらしくもない。彼女はエクスフィアさえつけていません。あの似非物のラタトスク・コアだけ。あれはエクスフィアに匹敵するだけの力が出せますが、同時にラタトスク様の魔力が込められていますから、無効化するなど、容易なことです。だいたい外してしまえばいいのですから」
「テネブラエ、口が過ぎるぞ」
「あなたはもう、昔の憎しみだけに滾ったお方ではありません」
きっぱり、テネブラエが言う。皮肉るような意味も込められている気がした。
「あなたが彼から授かったのは、そういうものも含まれているのではありませんか?」
ラタトスクはため息をついた。
それから、ふっとあの彼のように優しい瞳になった。
「……それはお前も同じだろう。──お前が忠誠を誓ったのは、俺だけじゃないようだからな。『マルタ様』」
テネブラエは微笑むだけで、他には何も言わなかった。
闇に消える。
陰鬱な表情で、マルタが救いの小屋のドアを開け、目に飛び込んできたのは、エミルの後ろ姿だった。
エミルが振り返る様が見えた。
「……え?」
次の瞬間、マルタに温かいものが被さった。
抱きしめられたのだと、瞬時に判断がつく。
「エミル?」
「もう大丈夫だから」
エミルが優しい声色で囁く。
「もう、もう一人の──僕に負けたりしないから……安心して」
その声が、ちょっとぎこちない。
抱きしめる力がちょっと痛い。
瞳を窺うこともできないけれど、何となくわかっていた。
ただ、指摘はしなかった。
「うん……安心するね、エミル」
悲しいぐらいに、優しい君。
君の嘘、今だけ、本当だと思うから。
どうしようもなく優しい赤い眼の君。