舞い上がる桃色
苦境に立たされても、ユーリを一目見れば乗り越えられそうな気がするのも、
ユーリがいればいつも助けてくれるような気がするのも、
ユーリが、ユーリがいれば、どうにでもなりそうな気がするのも。
その答えを出すのに、ずいぶん時間がかかりました。
でも今なら………今なら
背筋を伸ばして、堂々と、答えられる気がします。
「できました!」
旅から帰って三年が経った。
いくつかめの童話が完成し、エステルは上機嫌で原稿を抱きしめていた。
窓の向かいの開け放していた窓から、ひときわ強い風が流れ込む。ハルルの樹の花びらも数枚流れ込んでくる。
その花びらに誘われるように、エステルは窓から首を突き出した。
と、それを待っていたかのようにラピードが視界に現れ、吠えた。
「ワン!」
「遊びに来てくれたんです?」
わき上がる嬉しさを声に抑えきれず、窓から手を伸ばしていた。
さすがに窓からやってこれるわけもないことに気が付き、腕を引っ込めるとラピードはすごい速さで宿屋に突進し、
壁を駆け上るようにして一つ下の屋根伝いにこちらの窓にやってきた。
「ラピード!」
両腕を伸ばすエステルを蹴飛ばすようにぶつかってきて、エステルはラピードの下敷きになってしまった。
そのまま舐めてくれるとばかり思って身構えていたが、さすがはラピード、そんなことはせずに冷ややかな視線を送りつつ、エステルの上から退いた。
どうすればいいのか分からず呆けたが、跳躍力と冷ややかな態度は自分で結論付けて納得することにした。
「強くなったんですね! あれから三年も経ちますから」
エステルは一人でガッツポーズをとる。
ラピードは部屋の中心で座り、澄まし顔でそっぽを向いた。
「何してるんです?」
問いかけても何も言わない。
沈黙に耐えかねて、エステルが座り込んだその時、ババババババと、何かの羽音が聞こえてきた。次第に大きくなる。
少ししてその正体に感づいたエステルは、立ち上がり、机の向かいにある窓を全開にした。
「リタ!」
叫び、窓の外を見る。
「え、え、エステル、退きなさーい!」
しゅばっ、がんっ、ごつっ、かっかっかっかっ………。
座席にそのまま四枚の羽根が付いているようなその機械は、窓から一直線にクローゼットに追突し、クローゼットに傷跡を残し、墜落した。
座席に座っていた少女、リタは付けていたゴーグルを取り、怒りにまかせて床にたたきつけた。
機械は今だ羽根を震わせている。クローゼットにぶつかっているので、動きが遅いが。
「あー、うっさいわね!」
怒り爆発のリタは、その様子を見て機械に魔術をぶつけようとしたが、エステルの心配そうな視線に気づくと、
誰にも何も言われていないのに渋々と言った様子で詠唱をやめ、代わりに機械を踏みつぶして故障させた。
「試作品だからって使ってやったらこのざまじゃない! ったく、あいつ!」
あいつ、とはおそらくアスピオにいる魔導士のことだろうか。
そんなことを考えながらリタに駆け寄る。
「大丈夫ですか?」
「ああ、平気よ、こんなの」
服をはたいて立ち上がる。と、エステルはリタの額に桃色のものが付いていることに気がついた。
リタはエステルの背後に何か別のものがいることに気がついた。
「リタ、花弁ついてます!」
「何で犬っころがこんなところにいるのよ!」
ラピードは小さく吠えるだけだ。
「あー! 早く出て行きなさいったら!」
ラピードを担ぎあげようと手を伸ばすが、ラピードは身軽にリタの腕を避ける。エステルの原稿を避けて器用に机の上に乗る。
「こら、待ちなさい!」
リタがラピードを捕まえんと飛びかかるが、ラピードは体をくねらせて避け、窓の外へ跳んでいった。
「帰るんです? 気をつけてくださいね!」
窓の向かって身を乗り出し呼び掛ける。リタが腕を組んだ。
「……ったく何であの犬がここにいるのよ。大体、犬だけ来たわけ? あいつは」
あいつ?
ユーリ……。
「ゆ、ユーリが来てるんです?」
「知らないわよ」
……ため息。
このため息はどういう意味なのだろう、と思う。
来てほしいってことなのか、
来てなくて良かったってことなのか、
今すぐ近くに来るのではないかという心配なのか。
と、考えてからエステルはリタに見られないように頬を手で覆い隠してそっぽを向いた。
この選択肢じゃ、どこをどうしてもユーリのこと好きみたいじゃないですか!
気づいてはいるんですけどね。
心の中で弁解してみる。
でも、認めるのが怖いんです。
ユーリに隣に来てほしい。
これは、彼のことが好きなら普通のことです。
ユーリに守ってほしい。
これはだめです。ユーリにこれ以上迷惑かけるわけにはいきません。
頼っていないつもりだったのに、私はかなり頼ってきていたのですから。
ユーリに私だけを見てほしい。
これは絶対に、だめです。ユーリはもともと自由人ですから、繋ぎとめるなんて、そんなこと。
……私がユーリを繋ぎとめられるなんて、とても思えないんですけどね。
「………エステルあんた」
その先の言葉が見つからない。
ユーリに恋していることが丸出しであるこの少女へ、親友としてどのような言葉をかければいいのか分からない。
頑張れ?
お似合い?
ううん、そんな仮初め、この子には通じない。
──いや、何も言わなくても平気なのよ。
大丈夫、この子なら。
ユーリに立ち向かえるわ。
だから、何も言わないでおく。
何も、言わないでおく。
「あたし、帰るわ」
「え? どうしてです? ゆっくりしていってください!」
我に返り、引きとめようとするエステルに、リタは薄く笑った。
「……上の空、だったわよ、エステル」
エステルは聞き返す。
もう、何も言わない。
「まっ、また来るから」
体重をかけ、力任せにめり込んだ機械を引っこ抜く。
「どうにか飛べるわね。これを使えば」
リタは小型の円柱を取りだした。
「なんです、それ」
「精霊の力を利用して擬似魔術を発動する装置なんだけど、これでこの機械のエンジンを一時的に使えるようにすれば……羽が折れてるから不安定だけどね、このポンコツ」
「え、羽が折れたのはリタが蹴ったからじゃ……」
「う、うっさいわね……」
エステルが相手だからか、口調があまり強くない。
円柱についていた突起を引っ張ると、円柱の中の部分が光り出す。それをリタが咥える。
機械を屋根にせりだし、後ろの部分にしがみつくようにして、一瞬振り返る。
エステルは手を振っていた。
リタは言わない、と決めた。
それでも、呟いてしまう。
「……あんたなら、大丈夫よ」
「え?」
装置を咥えていたせいで上手く聞こえなかったらしい。
リタは呪文を詠唱する。すると、機械の羽がぎこちなく羽ばたきだす。
瞬きする間に見えなくなっていた。
リタについていた、花弁が、机の上で風に舞う。
夜が来る。
「よっ」
「わぁ!」
振り返ると、ドアの枠にもたれかかるようにユーリが経っていた。
「い、いつのまにそこにいたんです?」
「ついさっき」
「いきなり来ないでください。腰を抜かしそうになったんですよ?」
「来いって言ったのはどこのお姫様だよ」
ユーリが呆れて言う。
ユーリが言っているのは、星喰みを倒して無事オルニオンに戻ってきた時のことである。
「ユーリはこれからどうするんです?」
何処を見ているのやら、エステルの問いにユーリは宙に視線を巡らせた。
「そうだなぁ……下町に戻るだろうな。ギルドの仕事もするだろうけど」
「そう、です……」
声色が沈んでいくのが自分でも分かった。ユーリは困ったように溜息をつく。
エステルは俯いたまま少しだけ上目遣いになりユーリを見て、言いづらそうに続けた。
「……あの、ハルルに、たまには、来てくれます、よね?」
「どうだろうな? 凛々の明星も有名になってきたし、忙しくなりそうなもんだけど。それに一応俺、下町のルブランから逃げてきてるから。そんな余裕あるかどうかも分かんねえけど」
一息つく。
「ま、時々なら、ハルルにお姫様を攫いに行ってやるよ」
「……はい!」
ユーリに言われるがままに鮮明すぎるほどその時のことを思い出して、エステルは顔を赤くしそうになった。
──私、大胆過ぎ、です……。
来てくれますよね?
冷静に受け止めれば、単純に遊びに来てほしいとの話なのだから、大胆でも何でもないのだが、どうにも今のエステルにはそうとは受け止められない。
「エステル、真赤だぞ」
「そ、そんなこと…」
触らなくても分かるほど、熱い。
かなり赤くなっているだろう。
それでもエステルはむきになって否定するので、ユーリはこみあげてくる笑いをこらえられなかった。
「わ、笑わないでください」
とっさにユーリの口を手でふさぐ。
それでも笑いが止まらないようだ。
「笑わないでくださいったら!」
手を外す。
黙ってください!
とっさとはいえ、何故こんな風に黙らせようと思ったのか分からない。
しかし、黙らせるという目的は達成した。
その時ユーリは、一瞬何が起きたか分かっていなかった。
エステルは自分のしたことに気付き、すぐに唇に圧しつけていた自分のそれを離した。
「あ……、その………」
ユーリは驚きのあまりきょとんとしていたが、何を思ったのだろう、先ほどとは比べ物にならないほど大きな声で笑い出した。
「な、何で笑うんです……?」
今度はエステルの声量が落ちている。
ユーリは笑ってから、エステルに目をやり、何かをつぶやいた。エステルに聞き返す気力はない。
笑い収まりきらぬという状態で、ユーリは短く挨拶をして去って行った。
ユーリの笑顔が見れたのはうれしかったけれど、エステルは完全にユーリに取り残されていた。
しばらくしてから、ふっと口から息を出す。
「……ですよね、冗談だと思いますよね」
疎らな笑いが口から洩れる。顔はひきつる。
当たり前のことですよね。いきなりあんなことされて、本気だとは思いませんよね。
ただひとつ、気になったことがある。
爆笑したままドアから帰ったはずなのに、ドアが閉じられた途端ユーリの声が止んでいた。
夜更けだった。
ユーリは下町の宿屋で窓にもたれて空を見上げていた。
ノックの音。
「誰だ?」
「……私です」
エステルの声。
「……謝りに来ました」
ユーリはドアを開けた。
エステルがうつむき加減で立っていた。
「何をだ?」
悪戯っぽい笑みを浮かべて言う。
エステルは言葉に詰まった。
「ま、入れよ」
ユーリは優しく笑って迎え入れてくれた。
……これで十分だと、思ってしまった。
「飲み物もろくにねえわ」
「あ、大丈夫です」
エステルが胸の前で手を振る。
「欲しいって言われても出せねえけどな。ならよかった」
ユーリは胡坐をかいて座る。エステルは正座して、沈黙した。
その状態のまま、両方一言も話さぬまま、何時間かたち、沈黙に耐えかねたユーリが言う。
「な、エステル、どうしたんだ?」
「どうも」
「何を謝りに来たんだ?」
責め立てるような口調だった。
もう、出て行きたくなった。
でも、
今しか、
ないのだと、
分かっていた。
「キスしたことです」
くぐもるような思い声色で言う。ユーリは小首をかしげた。
「ああ、あれな。俺がからかったからだ。エステルは悪くねえよ」
ユーリはまるで、もうこの話を終わりにしたいかのようだった。
今しかないのだと、分かっていた。
だけど、もう、別にいいのではないかとも思っていた。
ユーリはいいって言ってくれてます。
なら、今度ちゃんとしたお詫びをして、今は帰りましょう。
ユーリとは、いつまでも一緒に居られますよ。きっと。
そんなわけないじゃないですか。
「ごめんなさい」
「いいって」
エステルは立ちあがった。暗い表情のままだった。
「送るぜ」
「あ、いいです」
「俺のせいでこんな夜に遠出させちまったからな。なんかするわけじゃねえよ……ラピードに送らせようか」
エステルの返事を待たずに、ユーリは立ちあがった。
丸くなって寝ていたラピードが何も言わずに立ち上がる。
「起きてたんだろ。いや、起こしちまったのかな。とにかく、頼むわ」
ラピードは小さくうなずき、エステルを引き連れるようにして部屋を出た。
エステルはされるがままだった。
「起こしちゃったんですね、すいません」
私がそういうとラピードは気にしてないというように尻尾を振りました。
私は何をしているんでしょう?
私はユーリが好きです。
なのに、気を遣わせて、何をしたいのでしょう?
わかりません。
こんな気持ち初めてだから、分かりません。
でも、私はザーフィアスから一歩、一歩と離れていっています。
怖いのです。
今キスしたことをわびておかないと、ユーリに避けられるようになったら、怖いのです。
今の関係を続けば、ずっと一緒に居られますから。
──嘘ですね。
そんなこと、あるわけないじゃないですか。
ユーリだって、いずれは誰かと結ばれるかもしれません。
ずっと私と一緒なんて、あるわけないじゃないですか。
何を、妄信しているのでしょう、私。
泣きたくなってきました。
夜の風が、肌を切り裂くように私を痛めつけているように感じられました。
ラピードが不意に立ち止まりました。
「どうしたんです?」
動こうとしません。
「どうしたんで……」
すると、すごいスピードでザーフィアスの方向へ走って行きました。
不意打ちでした。
「ら、ラピード!」
名前を呼んでも止まりません。
「待ってください」
ラピードを追うためだけとは思えないくらい、あっさりと後ろへ振りかえることが出来ました。
「お、どうしたラピード」
部屋でユーリが声を上げた。と、追い付いてきたエステルの姿を窓越しに認め、誰も起こさないようにラピードを部屋の中へ残してゆっくりと降りてきた。
ユーリは立ち止まった。エステルも追い付く。
「帰ったんじゃなかったのか? エステ……」
「好きです!」
大声で言う。
桃色に頬を染めて、大声で言う。
「一緒にいたくてその、大好き、なんです…!」
たった二言言うだけなのに、エステルは息切れしていた。
苦しそうに呼吸を繰り返す。
ユーリは一瞬目を伏せて、穏やかに笑った。
「ああ」
風が二人の髪を揺らした。
「俺も好きだぜ」
息が詰まる。
かろうじて、声を吐きだす。
心音が聞こえる。
動悸がする。
心音が聞こえる。
「ほ……本当、です?」
「嘘はついてないぜ」
エステルはどんな顔をしたらいいかわからなかったが、心音だけが高まっていく。
見計らって、ユーリは続けた。
「………俺だけじゃない」
エステルは短く聞き返す。
穏やかに笑った、その表情のままで、ユーリはエステルを突き落とした。
「リタもフレンもジュディスもみんな、エステルのこと、好きだと思うぞ」
止まる、心音。
喉の奥が張り付く。
かすれて、聞き返すのも叶わなかった。
「今更そんなこと言わせるなよ」
「そう、ですよね。そうですよね、好きですよね……」
そうか。
ユーリは、私のこと恋愛対象としてさえ、見てないんですね。
わかりました。
そうですよ。最初から、そうに決まっていたじゃないですか……。
馬鹿ですね。私。
何ででしょう、胸が痛くて痛くて辛いです……!
ユーリの顔、見たくないです。
その一心で、エステルは踵を返して走り去って行った。
「ワン」
夜だからか、それとも別の理由でか、控えめにラピードが鳴く。
「……分かってるさ」
あいつが本気なことぐらい、バレバレだって。
あいつが俺にどんなこと思ってたかぐらい、バレバレだって。
「気づいてくれなきゃよかったんだけどな」
罪人だから遠慮してる?
もちろんそれもある。
自分に彼女は釣り合わない?
当然それもある。
けど、違う。
違うんだ。そういう高尚なもんじゃない。──恋心でも、ない。
ラピードが俺の服の裾を引っ張る。
「尻込みしてるわけでもねえよ。八割本心。俺には、こっちの方がお似合いだろ」
ちょっと傷つけすぎたかな。
かなり酷なことしてるって知ってる。
あいつの思いが本物ならなおさら。
ふと、ラピードの足元に何かが落ちていることに気がついた。
紙が一枚落ちていた。拾い上げる。一文だけ書かれていた。
「──そして、二人は悲しい別れを遂げました」
ラピードを苦しい目で見る。
「わざとだろ、これエステルの部屋からか? 拾い上げてきたの。口の中にでも隠してたのか? 当てつけか? ラピード」
質問を連ねてみるも、ラピードは首を振る。
「……こっちはわざとじゃねえよな」
ラピードにハルルの樹の花びらがついていた。不意に吹いた風に舞い上がる。
いつの間にか握りしめていた紙に視線を落とし、薄く笑う。
「会う口実ができちまったなぁ……」
花弁に手を伸ばしてみる。ユーリの指先に触れることもなく、暗闇の中へ消えていった。