SIDE-L
Barと金文字が付けられた硝子戸が押し開かれ、店主は反射で叫んでいた。
「未成年者お断りだよ!」
「なんで?」
入ってきたその少女に、小柄な韓国人女店主は怒鳴り返す。
「酒だけ飲むバーなんだから当たり前じゃないの!」
店内はバーらしい高級感のあるインテリアになっているが、店主の言いようはまるで居酒屋のようだ。
表にはBarの文字のすぐ下にCloseの看板が揺れている。
「そうじゃなくって、なんで私ってわかったの?」
「こんな開店間際の中途半端な時間帯に来る客なんてあんたぐらいなもんだよ。って、客でさえないのに」
「いいでしょ、飲むもんないんだから。開店したら出ていくから」
少女リーンはカウンターに座った。店主は渋々といった様子でだが、水を出す。
それに、とリーンは店内の奥を指差す。
他のテーブルやカウンターは綺麗に片付いているのに対し、一番奥のテーブルだけ、グラスが山積みになっている。そこに酔い潰れているのは、頭髪の薄さが目立つ高齢の男。
「あの人だって、開店前に飲んでるじゃない?」
「あの客は別だよ。開店前に飲んでるっていうより、閉店後も飲んでるんだ。店の空気が悪くなるから、早く起きてほしいんだけど」
「じゃあ起こすね。おじいさーん」
リーンは店主の返事も聞かずゆっくりと男に近寄り、腕を伸ばして軽く体を揺すぶる。
強い酒の匂いが年齢特有のにおいと混じり、リーンにまとわりつく。
男は寝ぼけ眼でリーンを見ると、背中に乗っていた彼女の手を両手でがっちりとつかんだ。
「リーンちゃんか……」
酔いは醒めているのかどうなのか、顔に赤らみはない。
その顔を見て、リーンは店主に振り返った。
「……あれ? ジェヒ、ねえ、このおじいさんって、ここの常連?」
「そうよ。気づかなかった? あんたはここ最近来てなかったものね、顔忘れたの?」
「忘れたんじゃなくて、突っ伏してたからわかんなかったの。来てなかったんじゃなくて、来れなかったんだし」
店主は眉根を少し寄せたが、それから急に呆れ顔になった。表情がころころ変わる女性である。
「まーた捕まったの? 姫神様には逆らえないわよ。いい加減その意味分かんない虚言をやめなさいって」
「意味わかんなくないし! 私は姫神に逆らってるんじゃなくて、教団が何か企んでるってことに怒ってるの! 姫神なんて神様はいないのに、教団の利益のためだけに教団は動いてるんだから」
「それが意味わかんないのよ。姫神様がいないなんて何であんたがわかんの。で、教団のどこに企みがあるっていうの? お布施取るところ? 祈りを勧めるところ? 教団なら当たり前じゃない」
「ジェヒには分かんないよ」
「分からなくて結構。そもそも」
店主はカウンターから身を乗り出し、威圧感あふれる瞳でリーンを睨みつけた。
リーンはその眼光に一瞬たじろぐ。
「そ、そもそも?」
「根拠は?」
そうだ。ここで全部引っかかる。
姫神という神はいないと声高に訴え、教団は教団のために信者を利用しているというリーンに、皆一様に言う。
何故そう思うのか? 何がその証拠なのか?
リーンは一度たりとも、それに答えられたことがない。
リーンも自分が妄想をしているのではと疑ったことがある。
しかし、どうしても、どうひっくり返っても、教団が何かよからぬことをしているのだとしか考えることができないのだ。
「あんたの虚言に、お父様はさぞかし悩ましいだろうよ」
店主はそう言ってコップを拭きながら鼻を鳴らす。
男がふわりと欠伸をして、リーンの手に力を込めた。
「もしよければ俺がリーンちゃんのパパになってあげてもいいぞー」
「今の父さんもお断りだけど、おじいさんも残念、断るわ」
「どっへー」
やはりまだ酔いから醒めているわけではないようだ。おどけて両腕を開き、後ろに倒れ込む。
リーンはすっと手を引き、そう言えばとカウンターを向く。
「ウリコって何?」
「売り子のこと? 販売員のことでしょ」
「あ、それでいいんだ」
リーンはカウンターの上の水の入ったコップにつかつか歩み寄り、一気にあおった。
コップを差し出し、何も言わずに店主は氷の入った新しい水を注ぐ。
「今日変なおっさんに会ってさ」
「おっさん?」
「ウリコか、って聞かれたの。だからもしかしたら隠語なのかなって思ったんだけど」
店主は瞬きするまでの間、青筋を浮かべた。
頭をかきむしる。
「リーン……それは多分、夜の女か、っていう意味だよ」
リーンはしばらく水を口にして黙っていたが、いきなりぶッと吹き出した。
店主は目を丸くして、布巾を取り出す。
「汚い」
「なんで私が娼婦と勘違いされなきゃいけないの?」
「そりゃこっちが聞きたいよ。あんたの虚言のせいで──地位もあるだろうけど、あんたはここら辺の有名人だしねえ。変に肌露出してない限り、そんな風には見られないわよ」
今、リーンの格好は襟の大きい白いジャケットに黒タイツとミニスカートで、露出が多いとは言えない。
「あんた、何処で会ったのよ?」
リーンは生唾を飲んだ。
何時も閉められている、門の向こう。
その表情で悟ったらしく、店主はあちゃー、といいながら額に手を添えた。
「門の向こうに行ったんだ。あそこ、ピンク街っていうの? 裏の世界のとこだからさぁ〜。あんなあからさまに区切っちゃったら、リーンも行きたくなるわよね」
「し、知らなかったし! 行くなともいわなかったし……」
「一般人に来てほしくないから門があるのよ。ま、あんたはそれ以前に叱らなきゃいけないことがあるから、ほっとかれてたのね」
リーンが飲み干したコップを下げ、店主はふと時計を見た。
「もうそろそろ帰ってよ」
「ね、裏の世界って……」
「手ぇ出さない方がいいわよ」
「教団も関わってるの?」
店主は眉を変な風に曲げてリーンを見つめた。
リーンは揺らぐことなく見つめ返す。
後ろで男がうめき声を僅かにあげた。
「──かーっ! あんた、相変わらず鋭いねぇ。そうだよ。この時代、教団がかかわってない事業が広まるなんてのはないね。裏世界の奴らだって姫神様を信仰してるし。姫神の支配を嫌がるやつもいたらしいけど、教団がかかわってちゃ、それもね。あんたにこれを言うのもなんだけど、教団の重役が手ぇ出してるって話さ」
店主はカウンターを抜け出し、男の前のテーブルを片づけ始めた。
もうそろそろ開店の時間だ。
リーンは少し考え込むように俯き、それから少ししてばっと顔を上げた。
「そういうところに精通してる人とかっている?」
店主は背中で答える。
「そりゃ、裏世界で生きてるやつもいるからねえ」
「そうじゃなくて、こう、ご意見番みたいな人」
「あたしだって、客の噂をちらほら聞くだけだけど、裏世界の情報屋はいるらしいよ。どんな奴かは知らないけど」
「ふーん」
リーンは立ち上がり、ドアの方へ向かった。店主が振り返る。
──まさか、情報屋に情報を──
「リーン、変な方向に手を」
「クローズの看板、裏返しとくね」
リーンは素早くドアを閉めた。
店主は裏返された看板を見て息を吐く。
あの子は離婚した母親にも構ってもらえず、副教団長の娘ということでいつも奇異な目で見られてきて……。
奇異な目なのは、あの虚言のせいなのかもしれないけど。
店主は何も呟くことなく、ただため息をまた吐くと、男を起こしにかかった。
店の外でOpenの字が何かの暗示のように、漂っている。