SIDE-L
リーンもばつの悪い思い、というより不機嫌だった。
生まれて初めて心から──というのはリーンの勝手な見立てだが──自分の考えを信じてくれる大人が出現し、喜んだのもつかの間、その大人であるピエロはリーンに姫神教についての何の情報もくれず、黙ってリーンの手を引くだけだ。しかも、裏繁華街から出ていく方向へ。
信じてもらい喜んだ手前、抵抗するのもどうかと思い、リーンは黙っていたが、丁度あの門を抜けたところで耐えられなくなった。
「おっさん! 何? 姫神教が信者を蝕む宗教だって、信じてくれたんでしょ? この考えの核心がほしいの。って、さっき言ったわよね? 何処に連れてくのよ!」
喚きたて始めたリーンが、何も言わない限りずっと同じことを繰り返すということを悟ったピエロは、胸ほどの背丈の彼女に振り向き、唾を飛ばして怒鳴った。
「リーン、お嬢さんらしく黙りなよ。俺、店だっつったでしょ。商売しに行くの」
「表に?」
「うん。教団に」
リーンがびくりと体をこわばらせたのが、掴んだ手から伝わってきて、ピエロはその華奢な手首に力を込めた。
リーンは逃げようとすることもしなかった。
ただ、強い視線でピエロを見上げただけだった。
その瞳を、まるで日光の直射を避けるかのようにピエロは目を細めて見た。
眩しいというより、懐かしさが含まれているようだったが、リーンはそんな様子を窺う暇もなかった。
「……父さんの所に行くのね。金をせしめに」
リーンの妙に低い声色に、ピエロはおどけて笑った。
「商売と言ってちょうだい。俺も生計たてなきゃいけないんだから。そのためにはお嬢さんに逃げられちゃ困るのよ」
教団の本部は随分と大きい。
リーンの母はジーンと離婚して、この国にはいない。この国に王はおらず、教団が完全に支配しているので、滞在していればナンバー2である元夫に干渉せざるを得ないと思ったからだろう。母国あるヨーロッパ地方へ戻った。
彼女はリーンの親権を欲しがったが、社会的地位という点から最終的にリーンを引き取ったのはジーンの方だった。
リーンはその時すでに教団が悪事を働く、または働くだろうと考えていたので、教団に出入りできて探ることのできる立場はありがたかった。
母のことは今でも慕っているので、たまに──本当にたまにだが、母元へ行くこともある。
逆に、この国にいても父の所へは呼ばれない限り行かなかった。執務室に一番近い部屋を貸してもらいそこで生活しているために本当はそんなに顔を合わせない。生活費は父の方で勝手に払っているようだった。でも、ジーンはリーンがいちいち起こす教団への抗議行動、もとい問題行動でリーンを説教するので結局は顔を忘れるほど見なくなることはない。
「──教団を何と思っているんですか。そのような格好で……」
ふっと前を見ると、白い装束を身にまとった初老の男性がピエロを睨みつけていた。薄紅色のバッチが付いている。姫司祭だ。
見覚えがあった。姫神を信仰している反面、リーンに世話を焼いてくれる人だった。
ピエロは飄々とした様子で彼に薄っぺらい笑みを見せる。
「ごめんなさいね。ちゃんとした服、持ってきてないからさぁ」
リーンは我に返る。いつの間にか二人は教団本部にやってきていたのだ。
薄紅色の壁、ゴシック調の作り。リーンにはすっかり見慣れた建物となっているが、ピエロは誰に言うでもなく「すげえ、でっかい」と称賛とも大きな入口の真ん中で、ピエロと初老の姫司祭がいいあいをしている。
ピエロの右手はしっかりリーンの手首を捕らえている。
それに気付くと、初老の姫司祭は目を見張った。
「おや、リーン……この男は誰ですか? 知り合いですか?」
「ええと……」
さすがに裏世界の情報屋と言うわけにもいかないし、助けられて金を副教団長にせびりに行くところだなんてもってのほかだ。
親戚とでもいえばいいのだろうが、ピエロのくたびれたワイシャツに何処の物かと分からないような寒色系の野暮ったいパンツの姿を見ると、躊躇ってしまうものがある。
ピエロはその様子を横目で見て、「この子がさぁ」と言う。
「俺の祈祷邪魔しに来たの。だから、何? 確かこの子、副教団長の子らしいしさ、直談判っていうか、クレームつけにきたの。通してくれませんかね」
あからさまに訝しむ姫司祭に、リーンは慌ててうなずく。
「……本当ですか?」
「……うぅ……」
反省の色を一瞬見せたリーンに初老の姫司祭が顔をゆがめ、その途端リーンは失敗に気がついた。
リーンは普段、問題行動を起こしても一切反省しない。姫神を持ち上げるなんておかしい、教団には必ず裏がある、陰謀だと叫ぶだけだ。
それなのに、よりによってこんな男の時だけ、身を縮めるなんて……とそういうことなのだろう。
すぐに開き直ろうかと思ったが、いっそ、これを利用した方がいいかもしれない。
貫き通すことにした。
「あの──姫神のこと、あんまり今も信じられないけどさ、このおっ──おじさんに説教されてちょっと、目覚めたっていうか、分かった気がするの。だからちょっと……父さんに謝りたいっていうか……」
初老の姫司祭は目を見開いた。驚くほどに、大きく。そして、リーンの前で屈みこみ、ピエロに掴まれていない方の手を、両手で取った。
ぎょっとした。皺が程良く刻まれた目元には涙が溜まってさえいたからだ。
「リーン! あなたはやっと姫神様の尊さに気付いたのですね」
「ひ、姫司祭……」
「嬉しいですよ。あなたが幼いころから私はあなたの世話をしていて、あなたが稚拙な考えに惑わされずに、姫神様の存在に気付くことをずっと望んでいたんですから。ああ、感動しました。こんなことがあるとは!」
「あ、その……」
「わかりました。そうですね、早く副教団長に知らせなければなりません。この男性も──」
と言って、ピエロに目を向ける。ピエロは照れたように後頭部をがりがり掻いたが、姫司祭はすぐにリーンに向き直った。
「──私はあまり信用ならないのですが──頑固だったあなたを気付かせるまでした彼を副教団長に伝えないわけにはいきませんから、お連れします。あなた、お名前は?」
ピエロは少し躊躇ったが、
「ピエロだ」
と言った。
初老の姫司祭がすくっと立ち上がり、本部内へ、ピエロとリーンを案内する。ピエロはリーンにうまく言ったなと言わんばかりに目配せしたが、リーンは罪悪感で心臓にヒビが入ったような気がした。
──この人が、感動のあまり言いふらしたりしたらどうしよう。
呆れられるだろうな、とは思ったが、それは今も同じであることに気がつく。
本部の中の人物は、姫神を信じないリーンを疎むもの以外は顔なじみだった。
この姫司祭のように、優しく見守ってくれる人もいる。
それでも、誰も教団の陰謀について信じてくれなかった。
教団内部でおこっていることなのだから、単なる信者として入った修導士が気づいてくれたっていいのに。
とはいえ、リーンはその「陰謀」が始まっているかまだなのかさえ分かっていない。
ただリーンの中にある何かが、教団の企みを訴えかけ続ける。
副教団長執務室は空だった。
誰もいないことを伝える札もかかっていなかった。
「おかしいですね。勤務時間内なのですが……」
何だかその言いようが会社みたいで吹き出しそうになった。
しかし、次の姫司祭の言葉でリーンは固まった。
「では、教団長にピエロさんについてお伝えしますか」
「いやっ!」
とっさに叫んだので、副教団長執務室前の廊下に響き渡ってしまった。そこにいたのはピエロたちを抜いて2人程だが。
リーンは取り繕おうとして冷汗びっしょりになる。
「あの──教団長は私とあまり関わりがないし──父さんがいないなら──今はいいかなって」
初老の姫司祭は一蹴した。
「よくありません。結果的に姫神教団を支えてきたのはあなたが問題行動を起こす初期からいた教団長なのですよ。あなたが改心したとなれば、副教団長の次にお喜びになるに違いありません」
うーっ、だから改心してないんだってば!
あくまで心中で訴えかける。
教団長は苦手だった。
教団長というだけあって教団の中で一番偉い役職なのだが、その教団長の姫神信仰がさすがと言っていいほど深い。
そのため、大きな問題行動を起こせば高い確率で教団長にお世話をかけることが多い。
しかもその説教、長い。ジーンよりずっと、長い。めちゃくちゃ怒鳴られるうえに、長い。
その分改心を喜ぶかもしれないが、次にまた問題行動を起こせば長い説教がさらに長くなるであろうこと請け合い。
──と、それは置いておいて、まだジーンが教団にいるような気配をリーンは感じ取っていた。
「──父さん本当にいないの?」
「見たところもぬけの殻だな」
ピエロがひょこっと初老の姫司祭の後ろから執務室を見る。
隠れてるんじゃないか、と言いかけてやめた。さすがにそれはないだろう。
意味がない。
副教団長と教団長の執務室間は長くない。この廊下の突き当たりに仰々しい扉が付いていて、それが教団長の執務室だ。
初老の姫司祭が方向を変えて、ピエロもリーンを引きずるようにして、教団長執務室への道に一歩歩み出した。
──ダンッ!
その扉が一気に開かれ、一人の若い女性がそこから飛び出してきた。早歩きでわきを通り過ぎる。
なまじ足が速かっただけに、じっくりとは見れなかったが、綺麗な金髪がなびいていたのと、彼女の端整な横顔が青ざめていたことは気がついた。
どこかで見たことのある顔だった。
木曜日の午後。