SIDE-I
数秒の沈黙の後、気まずそうに斎が切り出した。
「………教団本部まで送れってことか?」
「だ、だと思います……じゃあ、送ってください」
「でも、それだと『ソア、後はよろしく』の意味が通じないぞ」
「それは──それは、また別の意味です」
「別の意味?」
まるで人形のように顔色の感じられないソアが、ますます顔色を悪くした気がした。
唇は、固く閉じられている。
「……あ、具合、大丈夫なのか? 姫を迎えに来れるほど回復したようには見えないけど」
「ええ、大丈夫です。ご心配をおかけしました」
ソアが笑う。無理しているようには見えなかった。が、顔色はやはり悪い。
「──早く教団本部に帰った方がいいぜ」
「そう、ですね」
ソアがうつむいた拍子に髪が落ちて、その髪の毛の一本一本の間から耳たぶが光ったのが見えた。
「ピアス……」
思わず口に出ていた。
ソアがばっと顔を上げる。
「これのことですか?」
ソアが掻き上げて見せた耳には、小さな桃色のピアスが乗っていた。
小さく、存在感はないがとても似合っていた。
女性のファッションに斎は疎いことを自覚していたが、それでもきれいだと思った。
ソアのような美人ならなおさらだ。
その通り口にすると、照れ笑いを浮かべて小首をかしげた。
「……言い過ぎですよ」
言い過ぎだとは思わなかったが、言っているとこっちが恥ずかしくなってくる。
しかし、訂正する気にもなれず、そのまま肯定した。
「そんなことないけど。うん、似合ってるし」
「斎さんよりは似合いますよ」
「はぐらかすなよ。完全に女性向けだろ、それ。俺がつけたら似合う似合わない以前に変だ」
「あははっ」
ソアが人差し指を曲げ、唇にかざすようにして近付け、笑う。
ソアも、何かと疑惑をにおわせ続けているが、なぜか、鼻から疑おうとは思えなかった。
なぜだろうか。
「はじめて気づいてもらいました。嬉しいな」
ソアが笑いながら言う。
「え? 初めて会ったときからつけてたのか?」
「違います。昨日つけ始めたんです。さっそく気づいてもらえるなんて思ってなかったので……小さいですし」
「でも、それでも今日も付けてるってことは、気に入ってるんだろう?」
「……思い入れがあるって言った方がいいですね。初めて買ったアクセサリーなんで」
「え?」
「教団本部での暮らしが長いので……アクセサリーの購入にまで手が回らなかったんです」
恥ずかしそうに言ってから、にこにこと笑いだす。
「ふーん」
生返事をしながら、今度は俺から買ってあげようかな、とぼんやり考える。
しかし、職業もないことに気がつく。
民宿に低賃金でもいいから雇ってもらうよう言おうか、と考えていたところでおずおずとソアは言いだした。
「………お昼、何か食べましたか?」
「姫と食べた」
朝ごはんを例によって民宿の食堂で大量に食べていたので、グラタンとパスタだけで十分すぎるぐらいだった。
その言い方だとソアはまだ食べていないらしい。
以前に例のレストランをおごられずとも紹介された恩がある。気づけば口走っていた。
「どっかで間食でもするか?」
腕時計に視線を落とす。3時のおやつにはちょうどいい時間だろう。
最近日が暮れるのが早いために、喫茶店に長居などできないだろうが。
──喫茶店ではない場所にしようか?
ソアは少しためらった様子で考え込んでいた。
「……どうした?」
「いえ……あの、手持ちが少ないので」
「俺、おごるけど。恩の売り逃げはよくないぞ」
「恩だなんて。前のレストランのことでしょう?私は払っていませんし」
「でもソアの付き添いだから俺は無料だったんだ。だから今度は俺が紹介する。あんなおしゃれじゃないけど。べつにいいだろ?」
斎の提案にソアがあいまいにうなずくと、斎はソアの顔を覗き込んで言った。
「酒、飲める?」
「飲めますけど……どこに行くんですか?」
斎はソアの声を無視して手をとった。
暗雲に背を向けて、市街地へ入っていく。
斎はここに最近はあまり行っていない。しかし、行きつけのバーではある。
Barと刻まれた扉をあけると、いつもはカウンターにいるはずの女店主がテーブルを片付けていた。
グラスが数個並び、水が滴り落ちている。こぼしたのだろう。
それを女店主が布巾を用いて丁寧にふき取っていた。
「ジェヒさん」
斎が声をかけると、ジェヒはこちらを向いていかにも驚いたことが分かるように眼を見開き口を大きく開けた。
「久しぶり、斎ちゃん。誰だい、そこの美人な娘さんは」
「……ソアと言います」
「へぇ、ソアちゃんねぇ……」
カウンター席にはテーブルの奥の席で寝ている者とは別に男が二人座っていた。
その男もソアに眼をやり、ため息をつくと酒を飲み始めた。
「独特な雰囲気なんですね。私、こういうところあまり行ったことがなくて」
「いや、ここは特別だよ」
ここだけはバーというより静かな食堂といった雰囲気である。
「こっちに座るかい?」
ジェヒはきれいに片づけたテーブルへ招くように腕をやる。
斎はそのままテーブルに近寄り、ソアもつられるようにそれに続く。
「──…テーブル席なんてあそこのいつも寝てるおっさんしか使ってないのに、誰ですかここ使ったの」
「あたしの娘」
「ジェヒさんって既婚者でしたっけ」
その問いには答えず、ジェヒはテーブルから離れ、カウンターへ戻った。
二人は隣に座る。
「何飲むの?」
ジェヒがカウンターから身を乗り出して聞く。
ソアが視線をあちこちに飛ばしてから小さな声で
「何がありますか?」
「たいていのもんはある」
ジェヒが胸を張って言う。
「じゃあ……発泡酒とか……」
ソアが身を縮めて言った。
「あ、安いのを飲もうとしたろ。気、使わなくていいよ」
これは斎だ。
「いえ、よく発泡酒飲んでますから。安いからよく飲んでて、飲み過ぎてそれが好きになっちゃったみたいなんです」
ジェヒが発泡酒をグラスに注いでソアの目の前に置いた。
ソアはためらいなくそれを飲み干す。
「おいおい、大丈夫か?」
「大丈夫ですよ」
と言いながらもソアの顔は赤くなり始めている。
「私、お言葉に甘えます。もう一杯もらえますか?」
「はいよ」
「いや、酒強いように見えないけど……ジェヒさん、俺、炭酸じゃないジュースもらえる」
「あんたは飲まないのかい」
といいながらもジェヒはオレンジジュースを紙コップに注いでカウンターを離れるところだった。
斎はちらりとソアを見るだけだ。
ソアは二杯目も二口ほどで飲み干した。
「もう一杯……もらえますか」
「はいはい、お姉さんよく飲むねぇ。まだ夕方だよ」
「ソア……なぁ」
「悪酔いはしませんから」
その声色は意外にもしっかりしていた。だが、顔は真っ赤になっており、上体がかすかに揺れている。
「ソア、やめとけ」
「お金、足りなくなりましたか?」
「違うけど……」
「じゃあ、飲ませてください」
「やめとけって、ほら! こっち飲んでな」
「オレンジジュース?」
「酒やめろ」
「ジュースはちょっと……発泡酒もう一杯ください」
「はいはい。斎ちゃんも飲ませてやりなさいよ。お姉さんにも飲みたい時があるんだよ。お姉さん、つけにしてあげるから好きなように飲みな」
「え? いいんですか? なら……いただきます」
「は? あ、ちょ……せめて一気飲みはやめろって!」
「ソアちゃんー、俺にも発泡酒くれよぉ」
テーブルの奥から溶けるようなだみ声がする。眠っていた男が起きたらしい。
「え?」
「あんたは黙ってな! てか、早く嫁さんとこ帰りなよ」
「だって、家に帰ったら掃除しろだの働けだの言うからぁ」
「……お酒飲みますか?」
「飲まして飲ましてー!」
「だーっ! ソアもじじいも飲むな!」
「大丈夫ですよ、斎さんに面倒はかけませんから」
「サービスでもう一杯ね」
「ジェヒさん、余計なことしないでください!」
3、4杯目に手をつけ、小一時間、いや二時間以上押し問答をしているうちに、ソアは目つきがトロンと垂れて、斎にもたれかかるようにして眠ってしまった。
「何が面倒かけないだよ……」
ひとりごとのつもりだったのだが、ジェヒには聞こえていたらしい。
「案外嬉しいんじゃないの?」
その冷やかしは聞き流して、静かに寝息を立てるソアを手で押さえながら、斎はジェヒを見上げた。
「そういえば俺、雇われ元を探してるんですけど……ソアのつけの分払うから、雇ってくれませんか?」
「うーん、斎ちゃんとはなじみが深いからねぇ。小さいころからよく一人で来てたし……その割には親御さんが迎えに来たことは一度もなかったけど」
考え込むようにジェヒはうつむき、顔を上げると斎が眉間にしわを寄せて唸っているのが見えた。
あわてて口をつぐむ。例の頭痛が始まったらしい。
──そうだ、この話題は禁句だった。とくに、小さいころの話題は……。
斎の唸り声が聞こえたのか、ソアがわずかに目を開き、自分がどんな体勢なのかが分かるとあわてて体を起こした。
「す、すいません! 斎さんにご迷惑かけないつもりだったのに……」
斎はソアの方を見る余裕もないようだ。頭を抱えて苦しんでいる。
「斎さん……また頭痛ですか?」
「うん。幼少期の話題を出すといつも苦しみだすのよ。前までは話題をやめるとおさまったのに、今日は長いわねぇ」
「………」
斎はそのままかなりの時間苦しみ続け、咳き込んだと思えば、顔を上げた。
「げほっ……」
「すみません。もたれちゃって。もう大丈夫ですか?」
「ああ……うん。前は気絶するほどだったから、それよりはまし」
「気絶? そりゃお医者様にかかった方がいいんじゃないのかい?」
「それ他の人に言われました。でも、無意味なんですよ。精神科にかかれとか言われたこともあったし」
「じゃあ、精神の病なんじゃないかい」
「違うよ。頭がおかしいとか思われてるんですよ。あー、でも……精神病ねぇ……」
斎が考え込み始めたところでソアがいきなり立ち上がった。
テーブルをたたき、バーの店内全員がソアに注目する。
「……?」
「あ、その………斎さん、帰りましょう。もう暗くなってきましたし」
ソアはバツの悪い顔で斎を見た。斎も驚きつつも了承する。
確かにいつの間にか暗雲がこちらへ伸びてきていた。暗い。
「あれ? ソア」
バーを後から出た斎は、ソアの姿が見当たらないことに不信感を覚える。
しばらくするとソアが店舗と隣の店舗の間から出てきた。
「えーっと……遅くなりますって電話してました。ごめんなさい」
「いや、いいけど。遅くなるって、まあさっきよりは遅くなったけど。まだどこか行く気?」
「はい。斎さんさえよければ……ちょっと付き合ってください」
ソアに言われるがままに、教団に一番近い小さな公園に連れられた。
当たり前だが、真っ暗とは言わないまでも十分夜なので、子供も大人も誰もいない。
滑り台とブランコだけの遊具の、あっさりとした公園内にベンチが点在しており、その中の一つにソアが歩みだした。
その数メートル手前で立ち止まり、斎へ振り返る。
「………私、あの………斎さん」
「ん?」
少し何かに戸惑うような、躊躇うような口の動きを見せる。
「どうした?」
「………頭痛って、いつからですか?」
斎の顔が痛みに歪む。
「………うあっ」
「斎さん? 大丈夫ですか? 斎さん?」
三分ほどして反射でうずくまっていた体を起こす。
「大丈……夫。思いだそうとすると…もう駄目だ」
「そう……そうなんです、か……頭痛、本当に大丈夫なんですか?」
斎はひどい頭痛を我慢しながら肩をすくめた。それから思いつきで口に出す。
「……ソアって、質問……多くないか? たまにはソアのこと聞いていいか?」
「そうですね……じゃあ、好きなものでもいいます」
質問させてくれないのかよ、と思う暇もなかった。
言葉にならない間の抜けた声を出す暇さえなかった。
「好き、かもしれません。斎さんのこと」
体中が弛緩した。
声が出ない。
ソアは腕を背中にやった。
──そうなのかもしれない。
ソアと会ってから、ずっと覚えてきた違和感は、そういうものだったのかもしれない。
なんとなく、曇った窓ガラスのようなものがあったのは、そのせいかもしれない。
ソアにそのような感情を持っていたからこそ、なんだかずれのようなものを感じていたのかもしれない。
ああ、そういうことだったんだ。分かった。
一瞬だけれど、晴れ晴れとしたような気持ちになった。
そうだ、これは、
コイゴコロ。
「俺も同じかもしれない」
いつの間にか下を見ていた。
「わかんないけど………でも、きっとそれに近いよ、俺」
ソアの震えと動きが止まる。どんな動きをしていたかは分からない。
ソアの顔を見る。
え?
あなたが好きです、というのは、恋の告白なのだろう。
ふつう、その恋の告白をしたとして、相手も同じ気持ちだと言われたら、喜ぶものなのではないか。
驚くことはあるだろう。でも、何にせよ喜ぶものなのではないか。
斎はそう思っていた。
でも、目の前にあるソアのそれは、明らかに喜びや戸惑い、驚きを形容したものではなかった。
どこか残念がっているような、青ざめた肌。表情。
あっけにとられてしまった。
ソアは唇をかみしめる。斎は気づけばにらまれていた。
冗談だったのだろうか、と的外れな予想をしてしまう。冗談だったならそれなりの取り繕い方がある。
そんな小さな失敗とは無縁の深刻さがソアにはあった。
ソアは唇をかむのをやめた。彼女のつややかな唇に歯形がついている。
ベンチに先ほどよりしっかりとした足取りで座る。
怒っているようだった。
「ソア?」
告白後特有の照れや恥ずかしさを感じる余裕はなかった。
ソアを追うようにして隣に座る。
「………なんでそんな………」
「質問、続けてください」
彼女らしからぬ強い口調に圧倒され、斎は納得いかないまでも質問することにした。
「……じゃ、どんな生活してるんだ?」
「え?」
「だって、ほら、教団本部で暮らしてるみたいだけど、それまでの生い立ちとか、そういうもの……気になるだろ。一応その、好きな人? だし」
「……それを、私に聞くんですか?」
どう見ても怒っている。
「ソア? 何を怒ってるんだ? ソア…」
その先を続けることはできなかった。
ソアが立ちあがり、ベンチの後ろに回り込みながら言う。
「ソア……ですってね」
斎がソアを見上げる。ソアは斎と視線を交えないまま、後ろから彼の首に抱きつく。
斎が口を開きかけると、それをさらに遮った。
「斎さんの、斎って、精進料理とか、神のために行動を律するという意味があるんですよ。私のソアは……」
ソアが斎のあごの下で自分の袖に手を突っ込む。黒いものが見えた。電気的な光を放つ。スタンガンだ。
「そあくひん」
一瞬にして理解をする。
──この名は、彼女にとって忌まわしいものでしかなかったのか。
斎が考えられたのはそれだけだった。
「粗悪品の、ソアです」
バチッ。
あっさりと電気をはじく音がして、斎の全身から力が抜けた。
スタンガンの先はまだ光を失っていない。時折小さな破裂音を立てて唸る。
下からソアの顔が照らされる。
暗闇の中だからか、瞳に光が映らない。
スタンガンの電源を消して袖に戻すと、携帯電話を取り出し、誰かにかける。
「はい。先ほどおっしゃった手はず通りに動きます。──してませんよ、そんなもの」
携帯電話もしまい、踵を返しかけた、その足が瞬きするまでの間、逡巡するような動きを見せて止まる。
「ごめんね」
乾いた足音が遠のいていく。