Second
告げない本音

SIDE-I

斎が寝泊まりしていたのは、かの教会の近くにある民宿だった。

民宿と言っても、斎の故郷の日本を彷彿とさせるような大きな古屋敷で、斎以外にも結構客が来ていた。

今いる斎のこの部屋は、家出をしてからずっと借りっぱなしだ。斎はベッドに腰掛けた。

簡易なそのベッドと冷蔵庫とそれから木の机。他には特に目立つものはない。強いて言うなら、教団本部の屋根までが見渡せる普通よりはちょっと大きめの窓ぐらいか。

一言で言うと質素というか、貧相なのだが、その温かさというか、懐かしさが好きで、値段の安さも魅力で、この宿に泊まり続けている。

斎に金はないので、民宿の身の回りの世話の仕事を少し手伝って割引してもらっていたが、やはり永遠に民宿にいるわけにはいかない。割引された民宿の代金も、いつかは払えなくなる。

職を探さなければならない。

そう考えると、今の斎はダメ人間、ということになる。

斎の顔には自然に自嘲の笑みが浮かんでいた。

全てを解決するには、ただひとつ。親元に戻ればいいのだ。

修導士になれば、教団が生活を保障してくれる。これは既知の事実だった。

そう、そうすれば万事解決だというのに、斎は一向にそうしようとしない。

「それが一番」「その方がいい」と頭では完全に理解しているはずなのに、気力が全くわかない。

斎が物事にこだわらないのは、今に始まったことではないし、無気力なのも性格の一部なのだが──。


姫神の教団が出来たのは話によるとこの島が見つかって人々が移住しだした頃、大体60年ほど昔だ。

無人島だったこの島国に移住したその人々が、幸福を司り予言と蘇生を行う女神の存在を謳いだしたのが、姫神教の始まりだそうだ。

それが宗教と形を持ち、あちこちにものすごい勢いで広まり、そしていつの間にか教団が出来ていた。

そういう話なんだそうだ。

斎がすべてこの民宿に泊まっていた修導士に聞いたことだ。

金曜、朝の湯を浴び、今自分の部屋に戻ってくるまでに、朝の湯が一緒になった男性が修導士だと知ってから、姫神について教えてもらっていたのだ。

深く信ずる者には予言や蘇生という目に見える形での恩恵が得られたのが、広まった主な理由らしいが、斎もその修導士も、蘇生の恩恵を得られたものを知らない。

ただ、修導士の方は、予言を姫司祭から受けた経験があるらしい。

「完全に当たりました。『その娘は二人の者を愛しているが、その娘の妹はお前を愛している』だったかな? その娘っていうのは当時の僕の彼女だったんですけど、確かに二股してて、で、その彼女の妹さんが、後になって告白してきたんです。今の嫁さんですよ」

随分と嬉しそうに修導士は語った。

修導士の知り合いにも、ささやかながら予言を受けたものがいるらしく、いずれも小さなことではあったが、抽象的なものではなかった。

そして、全て当たった。

やはり幸福だとか、そういうぼやけたものではなく、目に見える形で得られたその恩恵と言うのは、信仰心をより一層強めるのだろう。

そんなことをぶつぶつ考えていると、欠伸が出た。耳鳴りがし始める。

この期に及んで──と言うと語弊が出るが──姫神を信仰する気はないらしい。

これ以上深入りしようとするのを、斎が心のどこかで無意識に拒否しているようだった。

姫神の信者になって、その他大勢に交じって、他人と変わり映えのない生活を送り、漂うことがどれだけ楽なことかを、斎は知っている。

だからこそ、こだわることを知らない彼だからこそ、信者になり、修導士になり、いつか結婚して子育てをして死んでいくという道筋が、ひどく輝いてさえ見えた。

味気がないと人は言う。でも、信者は姫神を信じることを後悔なんてしないし、結婚し、その後の生活も、天涯孤独よりはよっぽど楽しいものだろう。

だからそれでいいのだと、斎は考えている。

しかし心の中でそれに反抗している。変わり映えのない生活が嫌なのではない。

姫神を信仰するのが嫌なのだ。

ああ、と斎は今更ながら悟った。

俺は──俺は、修導士になりたくないんだ。姫神にかかわりたくないんだ。そういうことなんだ。

今知った。今わかった。姫神を信じることを避けている。修導士になることを避けている。何故だ?

だんだん大きくなっていた耳鳴りがここで頭痛に変わり、斎は考えることをやめた。

何でだ? 何でこんなに頭痛がする?

何で俺はこんなに姫神を嫌がる? 修導士になること、それが俺の望んだ平穏に一番近いもののはずなのだ。

なのに……。

頭痛。

「うっ」

思わず低く呻いて頭を抱え込んだ。

数分のうちにその頭痛は止まり、恐る恐るという体で斎は体を起こした。

「この頭痛も……原因不明だよな」

内科には何度かかかったが、「異常は見当たらないのでとりあえず痛み止め出しておきます」以外にはロクな言葉をかけられていない。

痛み止めで多少痛みが和らいでも、一向に止まる気配がないので、服用を今はやめてしまっていた。

ごろんとベッドに倒れこみ、腕時計に視線を落とす。

昼前。ソアが教会にいる時間だろう。

斎の部屋の窓からは教会の様子が見えない。そのため、ソアがいるかも窺えない。

疲れからか、何からなのか、複雑な意味の混じった溜息を吐いた後、斎は反動をつけて起き上がった。

財布と携帯電話、適当に取り上げてポケットにしまいこみ、鍵のない部屋のドアを開けた。

 

「斎さん」

かけられた言葉には、明るかった。

が、しかし、違和感が伴うものだった。

ソアそっくりの姫神像の前で、ソアは手を軽く振る。

彼女にも、よく違和感を覚える。向けられた笑顔、それはいつも可憐ではあったが、心の中では決して笑っていないのだろうということが、何となく感じ取れた。

不快だった。

そんな仮面のような顔でこっちを見ないでほしい。本心から笑っていないのなら、笑わなければいい。そんな薄っぺらい嘘の顔をしないでほしい。

でも、斎を見ているソアの顔が、いつでも嘘のものだとは思いたくなかった。

少なくとも、口から滑り出た言葉、ソアを美人だといったあの時、照れからか喜びからか顔を上気させ、瞳を輝かせたあの顔は、嘘ではないと信じたい。

仮面のような顔で笑わないでほしい。ちゃんと心から、本心から笑ってほしい。

………本心から、笑ってほしい?

なんだか意味が変わってきた。斎は心の中で訝しがる。これではまるで──。

「斎さん?」

ソアが気づけば至近距離から顔を覗き込んでいた。我に返った斎は、意味不明の言葉を口走り、飛び退く。

「びっくりした……」

「びっくりしたのはこっちの方ですよ。呼びかけた途端歩みが止まって自分の世界に行ってしまうんですから」

少しソアが頬を膨らませる。斎は首をすくめた。

「ごめん。もう始まってるのか? 祈祷」

「祈祷会ですね。姫司祭様、いらっしゃってます。言うまでもないですけど」

そうソアが付け足して、目をやったのは、教会の入り口だった。教会の周囲だけやたら静かで、姫司祭だろう、何やら唱えているのが聞こえる。

教団に一番近い教会ということだからか、ここの教会は人の入りが多い、というのは朝の湯であった修導士から聞いた言葉だ。

人が特に多い、というのはうなずける。教会からは文字通り人があふれていた。ドアは開かれているというのは分かるが、ドアの内側はヒトが集まっているせいで見えないというほどだ。

「……入ります?」

ソアが投げかけたそれは、明らかに斎が入ろうとしていないのを悟った上での言葉だった。

「……今しかやってないのか?」

「姫司祭様のお言葉──今唱えていらっしゃる、祝福の呪文が頂けるのが、今の時間帯なんです。でも祈祷は、いつやってもかまわないものですし、祈祷会のある日は一日中姫司祭様が教会にいらっしゃるので、午後でもかまわないと思いますよ。……だから」

少しためらって続けられた言葉に、勢いはなかった。

「お昼、ご一緒しませんか」

「あ、いいけど」

ソアの顔が輝くようだった。眩しさに目を細めそうになる。

不思議と違和感はしなかった。

それで、十分だった。


ソアが連れていったのは、教会にやはり近い高級レストランだった。

「昼間から?」

意図せず出た言葉に、ソアは申し訳なさそうに俯いた。

内装は民宿とは天と地の差、薄暗くロマンチックな雰囲気が醸し出されてる。

フロアに行くまでの廊下でウェイトレスが並んで仰々しく自分たちにお辞儀する。

やはり夜に客の来る店なのだろう、あまり人がいない。

それでも古めかしい燭台に置かれたろうそくから香る匂いはリラックスできたし、メニューを持ってきたウェイターはとても礼儀正しかった。

どれくらいするのだろうか、収入がない自分にはかなり痛い出費だ、と頭の中で計算していたら、ソアが微笑んで

「気にしないでいいですよ」

と言う。

女性に高級店をおごらせて気にしない男が何処にいると思いたくなる。計算を続行している様子が見て取れたのだろう、ソアは軽く首を振った。

「本当に払わなくていいんですよ。私も払いませんから」

「は? どういう意味?」

ソアは一瞬逡巡したようだったが、

「ええと、あの、前に飲んだスープに虫が入っていたことがあって……それから、ここの料理は永久無料でいいと料理長から言われました。連れの方も」

「虫?」

「あ、ああ、大丈夫です、それはウェイターの手違いで……その人、クビになったらしいですから」

変だ。

虫が入ったぐらいで、永久無料になるだろうか? 普通。しかも連れまで。

でも、それでこの店の対応の理由は分かった。あんな、大名行列みたいなことをしたのは、ソアに後ろめたいことがあるからだ。

お互いにパスタを頼むと、やはり客がいないからかソアだからか、すぐに料理がやってきた。

斎は手を合わせるとすぐに、フォークを持ち出したが、ソアは皿に触れようともしない。顎を引いて何やら考え込んでいるようだ。顔が蒼い。

なにか信者特有の儀式でもあるのだろうかと考えていると、思い切ったようにソアは顔を上げた。

「斎さんの両親は、信者じゃないですよね?」

声が裏返っている。何があったのだろう、と思いながら首を横に振った。

「いや、がっつり信者。修導士だし」

目に見えてソアの顔色が悪くなった。

どういうことだろう、とパスタを巻き取る手を止めた。信じていないわけではない。信者なのだから、同じく信者であるソアにはそんな顔をする理由にはならないと思うが。

ソアが小さな声で聞いた。

「この国に、住んでますか?」

「ああ。今は別々に暮らしてるけど」

それがどうした? 続けようと思ってソアを覗き込む。

かすかにふるえていた。

「……食べないのか?」

こんな時に何を言ってるんだ、と思いたくなるが、斎はそう言ってしまっていて、ソアはゆっくりかぶりを振った。

「何だか、食欲がなくなってしまって……斎さん、食べてください」

「俺は一人前だけでいいよ」

これ以上話しかけたら泣いてしまいそうだと思い、斎はフォークを黙々と口へ運び始めた。

ソアは斎の食事中、何も言わなかった。

ただ、少しだけ、聞こえたことも疑いたくなるような声量で、

──もし姫様のおっしゃる通りなのだとしても、もう関係のないこと。

と言っていたような気がした。

その実感は完食したころには失せていた。


「……おや、ソアさん」

「お久しぶりです、姫司祭様」

祈祷会が終わり教会からばらばらと出てくる人の波に逆らって斎とソアが立っていた。

姫司祭は女だった。ソアの話だとこの教会に繰る姫司祭は一人だけではないが、ソアが一番親しくしているのが、この老婆の姫司祭なのだそうだ。

「この間副教団長と会っているところをお見かけしましたよ」

姫司祭はふんわりほほ笑んだ。毛糸を編んでいる姿がよく似合いそうだ。

ソアは微笑を返すだけで、何も補足しなかった。

レストランを出ると、ソアは無理矢理なのが丸出しの様子でテンションを上げようとしていた。

顔色は相変わらず悪かったが、彼女が斎に自分を心配させたくないと思っているのもわかって、斎はあえてそのことについて指摘しなかった。

心配させたくない……のもあるのかもしれないが、一番恐れているのはなぜ、そんなに顔色が悪いか聞かれることなのだと思う。

斎はあえてそのことについて指摘しなかった。

「彼が……斎さんが、祈祷をしたいとおっしゃるので……」

会釈した斎を見て、姫司祭は深々とお辞儀をした。

「そうなんですか。ええ、ええ、お祈り、受けますよ」

「お祈り……というより予言なんですけど」

斎が言いづらそうに姫司祭をみると、姫司祭は一瞬眉間にしわを寄せたが、すぐに憐れむような微笑に変わった。

「私、この方一度も予言を授かったことがないの。この教会の姫司祭で予言を授かるのはダドリー姫司祭だけよ。若い男性の姫司祭なのだけれどねぇ。午前に帰ってしまわれたわ」

責めるつもりではなかったのだが、思わず横目でソアを見ていた。ソアは知らなかった、とでもいう風に口を開いている。

本当に知らなかったのだろうか。それすら疑いたくなる。彼女は感情に仮面ばかり付けている。

「明日はダドリー姫司祭どころか誰も教会には来ないですし」

予言目当てと知って気を悪くしたのだろう、姫司祭は早口で言って踵を返した。斎も背を向ける体で踵を返す。

ソアは姫司祭と斎の間でうろうろしていたが、斎について行った。

「──どうしましょう」

「日曜日の午前中に行くだけだよ。そのダドリー姫司祭に会えるとは限らないけど」

長く信仰しないときっと予言は受けられないのだろうが。

ああ、なんだかまた頭痛がしてきた。親のことをソアに話したからだろうか。

顔をしかめて頭を押さえる斎にソアは複雑な視線を送っていた。心配しているのはわかったが、お互いに特にそのことについて声を掛け合うことはなかった。

頭痛が終わり、顔を上げると、ソアが視線を合わせずに

「………前もいいましたけど明日も、お話が、聞きたいので、教会前にいらしてくださいね」

まるで定例文のように言う。

特にやることもないので、ソアの提案が別段嫌だと思わなかった。

嬉しいぐらいだった。

「………ああ」

ソアにも背を向けかける。

「あの!」

少ししてソアの澄んだ声が響いてきて、斎は向き直った。

神にすがるような、悲しい目をしていた。しかし、焦点は確かに斎に合っていて、それだけ斎は安堵した。

「なんだ?」

「斎さん、お父様お母様、いつから修導士でしたか?」

なぜ今聞くのだろう。そんな事を考え出したらきょうのソアの行動は不審なところが多すぎる。

そう思いながらも、斎は答えた。頭痛がだんだん大きくなってくる。

「おれが物心ついたらもう修導士だったよ」

斎は頭痛に耐えられずソアの返事を待たずに歩きだした。人形のように血の気のない顔をしているのが、眼の端にちらりと見えた。

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