SIDE-I
「──斎」
金曜、いや、もう土曜というべきか、斎は真夜中に木の扉の奥からの静かな女の声で眼を覚ました。
声の持ち主はこの民宿の、いわば女将に値する人物だ。
返事もしていないのに、木の扉が開く。
「お電話よ。きなさい」
彼女は斎と同じ日本人、ちゃきちゃきの江戸っ子体質で、斎が若いことと金がないことに目をつけて斎に宿代半額の話を持ちかけた張本人だ。
顔馴染みとまでは言わないが、息子のように扱われている。
「……誰っすか」
「すごくきれいな声の女の子から。名前は、ソアとか言ってたわねぇ」
「ソアから?」
思わず口に出して訝しんでしまった。
ソアはこの宿に斎が泊まっていることを知らない。なのに、なぜ。
女将が何やら冷やかすようなことを言っているが、気に留められるほどまだ眠りから覚めているわけではなかった。
とにもかくにも出ないわけにはいかないので、寝る時に来ていたジャージのまま、のそのそと起き上がった。
斎の部屋は二階だ。一階廊下にある共用電話まで、降りていく。
「こんな時間に電話、ごめんなさい」
開口一番、ソアは本当に申し訳なさそうな声で言う。
嘘かどうかは、わからなかった。ソアの顔さえ見ることができれば、見抜けるのに。
「なんで俺の住んでるとこ、分かったの?」
「この島のことは教団が一切を取りきっていますから、教会周辺の泊まる施設の連絡先を調べ上げることぐらいはできるようになってるんです。教団本部では」
ソアはそう言ってから、また申し訳なさそうな声色に戻った。
「こんな時間に電話した理由は、土曜は……会えないということを、お伝えしたいと思って」
え?
「どうして?」
責めるような言い方になり、斎は自分で驚いた。
そんな、予定が狂う原因なんていくらでもあるだろう。なぜ、そんな風に言ってしまう。
ソアはますます悲しそうに言う。
「本当にすいません。もうすぐ姫神様の生誕祭が近いので……私もお祈りやお仕事が増えてきて」
「ああ、なんか、俺、言いかた悪かった。ごめん」
自分で自分に戸惑う。
ソアはひとしきり平謝りを繰り返して、
「日曜日は会えますから……起こしてすみません、おやすみなさい」
と言って、電話を切った。
日曜日は会えるから。
まるで恋人同士じゃないかと、斎は笑った。
どちらかといえば悪い気分ではなかった。
ソアと会う予定がなくなると、本当にやることがなくなった。
真夜中に起きたからか、真昼に目覚めてしまい、それでもやることがない。
いや、ないわけはないのだ。就職活動しかり、家に帰るのもまたしかり。
今、住所不定無職なのだ。
何度だって考えるが、すべては、実家に帰れば問題ない。
なのに、なぜ帰ろうと思えないのだろう。
耳鳴りがしだす。
そんなことを考え続けて──いや、答えは決まっているのだ。
「家にいたくないから家出をした」
「家にいたくないから帰らない」
それだけのことだ。
なぜ、家に帰りたくないのだろう。
なぜ、家に帰りたくないのだろう。
なぜ、家に帰りたくないのだろう。
なぜ、家に帰りたく──
「──っあ」
頭痛。
しかも、いつものとは比にならない。
体中が何かに拒否反応を起こすような、激痛。
思考を中断せざるを得なくなり、しかしそれでも痛みは治まらない。
「──なんで──いつもなら──もう──うあっ……」
斎はベッドの上で悶絶した。
眼を覚ました時はもう夕方になっていた。
痛みは治まっていた。
また、一日を無駄に過ごしたしまったみたいだなぁ、と苦笑が漏れる。
欠伸が出た。痛みはないけれど、どこか目の焦点があわない。
将来……安定した暮らしが、穏やかな暮らしができればいいと思っていた。
でも、もう見えなくなってしまった。
安定した暮らしへつながる道が見えなくなってしまった。
斎の脳内に親元へ帰るという選択肢はない。それを考えるだけで、さっきのようなひどい頭痛に襲われてしまうほどなのだから。
これでは安定した生活どころか結婚さえ危ういだろう。
結婚さえ危ういだろう。
ふっと、ある人物の顔が頭に浮かんだ。
──彼女どころか、どんな人間ともまともに生活できないに違いない。
本当に俺、どうなるんだろう。
安定した生活を送る。
好きな人を見つけて何となく結婚して、子供を産んで育てて、老後には田舎に住んだりして……。
そして他の人間と変わり映えなく死んでいく。
そんな生き方をバカにする人間もいるだろう。くだらないと蔑む者もいるだろう。
斎にとってはそれは、まぎれもない至上の人生なのだ。
だから、前にも思ったことがあるが、そんな普通の人生を送るには姫神を信仰するという、現代人からすれば当たり前のことをする必要があるのだ。
でもできない。
姫神を信じろと言われても、信じることはできない。
見てくれだけの、薄っぺらい信仰しかできない。
それを見抜いた人物の顔が浮かぶ。頭痛はしない。
腕時計をもう一度見る。
晩御飯の時間だった。
食堂でご飯がふるまわれる。
ここの民宿は大規模なので、まるで料亭の宴会場のような場所がひとつあり、そこが食堂と称され同時刻に朝昼晩とご飯がふるまわれる。
むろん、食べない者もいるので、来た人数だけ野菜を出したりご飯を盛ったりする。最初から用意するなんてことはしていない。
時間内に食べ終わらないと食堂に取り残され、散らかした分はきちんと自分で片付けろ、というのは女将の決めたルールだ。
食べない者もいる、とはあったが食べない者より食べる物の方が圧倒的に多いわけで、早く行かないとめぼしい料理はほかの客に食いつくされてしまう。
めぼしい料理、といっても船盛りがあったりだとか、カニがふるまわれたりだとか、そういう豪華なものが出ることはない。
今日の晩御飯は人数分の米飯とみそ汁と漬物、大皿に大量の餃子。
早くもニンニクのにおいが香る食堂には、民宿に泊まっている客が大勢集まって、餃子の取り合いが行われていた。
斎が踏み入ったと同時に、その横をすり抜けるようにしてこの民宿を運営する女将の家族の一人である娘が餃子の山を二つ皿の上に載せて持ってきた。
「民宿じゃなくてこれは、立派な旅館として運営できるレベルだわ」
娘がそんなことをつぶやいていた。
確かに、民宿とは名ばかり、これは立派な「旅館」だ。
「若兄ちゃん。今朝は来なかったな」
知り合いの男性が声をかける。ここに泊っている客の平均年齢はかなり高いので、斎は若兄ちゃんと呼ばれることがあるほど、目立つ。
ちなみにただの兄ちゃんでは、40や50の男性のことをさすことがある。
その男性の隣に斎は腰掛けた。男性の肌も髪の色も若干黒い。頭髪は少しだけ薄くなっている。
斎の部屋の隣の隣の隣に住んでいる、漁をしている国籍はアフリカの方の男性だ。
名前は、知らない。一度聞いたが、忘れてしまった。だが彼はとにかく良くしてくれる。
「寝過して……例の頭痛がひどくて、気絶した」
娘がすぐさま米飯とみそ汁と漬物を器用に持ってきた。何も言わずに去っていく。
「頭痛? 気絶するほどって、そりゃ、今までで一番ひどいんじゃないか?」
「最近特にひどい。前はここまでじゃなかった」
斎は木の箸を目の前の竹の皿から取り、それで餃子を米飯の上に乗せる。
男性のフォークが横から米飯を狙い伸びるが、斎は見逃さずにたたき落とした。
「俺の銀シャリなくなったから、譲ってくれよ」
「俺、育ち盛りだから」
「適当なこと言うな。若兄ちゃんはもう20歳だろ」
「どちらにせよだめだ」
男性はヘラリと笑っていたが、急に真剣な顔つきになった。
「──その年で気絶するほどの激痛って、正直わらえねぇよ。医者にかかったらどうだ」
「医者にかかって治るなら、治してる。しかも………」
男性は口いっぱいに餃子を押し込んでこっちを見た。
「ひ、しかも?」
「一回だけ、精神科に行けって言われたこともある。どうせ俺の気が狂ったとでも疑ってやがるんだ」
「そんなやつがいるわけ?」
「しかも眉間にしわ寄せて、真剣な顔つきで、だ。適当にそうしますっていったら、案内状をかくとか言われて」
「言われて?」
「知り合いに腕がいいのがいるって言って逃げた」
男性は餃子を咀嚼しながら笑いだした。
「今のご時世、医者も自由に営業できないから、必死なんじゃないか? 病気になっても、姫神様にお祈りした方が早そうだしな」
決め台詞が決まったのだろう、こっちを見て、ニッと笑う。
しかし、間もなくむせ始める。斎は苦笑した。
土曜の夜は更けていく。