SIDE-L
「わっ」
──一方、日曜日の朝。
リーンはテーブルの上で突っ伏していた。ずいぶん部屋が明るい。朝だ。ピエロの姿が見えない。ふっと後ろを見る。
そのピエロがソファで大の字になって寝ていた。もちろんのこと、ソファにそこまでの面積はなく、半分以上ずり落ちていた。
毛布をかけたいところだが、そのようなものは見つからない。店主の姿も見えなかった。
いつの間にやってきたのやら、前と同じように奥の席に男が大量のコップの下で眠っている。
ピエロを起こすべきかどうか迷っていると、ピエロの携帯電話が鳴りだした。
当然ながら突然のことでリーンは飛び上がり、ピエロも続くようにして飛び上がった。
「メール?」
不機嫌なのがむき出しの声で携帯電話を開き、長い間何かを打ち込んで──パスワードを入力している様子──その指の動きが止まると、ピエロの顔色が何かを嘲り笑うようなものに変わった。
「………そうきたのかぁ」
「なにがそうきたわけ?」
ピエロはこの時今日初めてリーンと視線を合わせ、それと同時に眉間にしわが寄る。携帯電話を閉じる。
しかしそれは一瞬のことで、気づけばいつものつかみどころのない態度でへらりと笑っていた。
「んにゃ。リーンちゃんが気にするこたぁない。酒飲みすぎたねぇ、どこまで話したっけ?」
「お、覚えてない。なんか、お酒の匂いに酔っちゃったみたいで……てかおっさん、お酒強いんでしょ?」
「強いけど、眠気には勝てないよ〜……結局リーンちゃんが覚えてないんじゃ本末転倒だし」
「教団が……教団が戦争を仕掛けようとしてることは覚えてるんだけど……」
とリーンは口走り、次には声を張り上げた。
「そうだった! そうそう、そうなの。教団が戦争って……どういうこと」
「そのままの意味。世界中に信者がいるからね。愛国者でも姫神の信仰には及ばない。国民が賛同しない戦争ほど勝ち目のないものもないよ」
今でも十分世界を支配してるって言えるけどね、とピエロは付け足す。
だが、リーンの心中の違和感はぬぐえなかった。
「戦争を──幸福を謳う姫神が望むなんて、信者は思わないんじゃないの? 戦争なんて、結局は殺し合いじゃない」
「なめてるね」
戦争を、という意味かと思ったが、違ったらしい。
信者を、という意味だ。正確には、そんな信者を育てあげた、教団を、だ。
「信じるっていうのは疑わないってことだからね。その戦争の先に幸福があると言えば、それまでのことだよ」
もちろん、各国もそれをわかっている。だから姫神教を禁じたりしない。
「──それどころか、国自体が姫神を信仰してるところもあるし。国を差し出せって言えば、国を差し出すでしょうし、兵隊になれって言えば──なるだろうね。信じるって、気軽にやっちゃいけないことだよ。それを、極端に広めることができるのは、そう簡単にできることじゃない。できるのは、まさしく神だけってことになるねぇ」
リーンはうなずきかけて、あわてて否定した。テーブルにこぼれた水の上へこぶしをたたきつける。
「でも、戦争となると話が別じゃないの? さすがに……信仰してたとしても、でも、気づくでしょ? 教団は神の声を聞いてるってほらふいてても、どれだけ上の人間、たとえば父さんや教団長だって姫神じゃないわ」
ピエロは後頭部をがりがりと掻く。リーンは続けた。
「私、小さいころから父さんに教えをたたきこまれたから知ってるの。姫神がここまで広まった理由は、姫神が予言と蘇生っていう特殊な力を持っていて、明確にそれを示したからだって……。それなら、教団がいくら予言したって、戦争自体に幸福がないって、いつか誰かが気づくわ。そこでもう姫神の信用はがた落ちよ」
我ながら筋の通った理屈、とリーンは思ったが、ピエロは同意しかねているようだった。
リーンはむっとして言う。
「なによ。間違ってないでしょ? 信仰とかそういうこと以前に、良心ってものが」
「いや、リーンちゃんの理屈は間違ってない。寸分もね。ま、普通に考えて、全世界が一様に動くことはないわぁ。それも世界最大規模の組織でも、それは揺らがない。うまくいかないわけではないけど、失敗する可能性もある。それは──教団としては勝率がいくら高くても博打だ。今でも十分な支配力があるんだから、失敗する可能性のある戦争に懸ける必要はない。そういうことよね?」
確かに、確かにそうなのだが、リーンはあまり相槌を打ちたくなかった。
戦争というのは、組織だとか支配力だとかそういうこと以前に人たちが殺し合うことが正当化される行為だ。
国のため(なら殺してもよい)。神のため(なら死ぬことは当然だ)。世界のため(なら死んでもいい)。
理由は知らない。だが、たしかにその人が死ぬし、善や悪の概念関係なく悪いことだと、思う。
そのことに、ピエロが触れてこないのが嫌だったのだ。
確かに、教団や国がそのことまで考えているとは思えなかった。
組織の視点なのだから、仕方がないのかもしれない。リーンの中では割り切れていないが。
死ぬことが脅威なのではない、死ぬことによる起こる損害が、組織を狂わせる要因になるのだから。
「──じゃ、正しいってことよね?」
ピエロはにやりと笑うだけで、それには答えなかった。
店主がカウンターからではなく玄関から入ってきた。
「ん? 結局あんたら帰らなかったんだ?」
「あー、寝させていただきました」
へこっとピエロが礼をしても、店主は鼻を鳴らしただけだった。
ピエロは気にする様子もない。携帯電話をポケットにしまいこみ、立ち上がる。
「ちょっと、おっさん、どこいくのよ」
「確信を握りに行くの」
「わ、私も一緒に行くわよ」
「待った」
ピエロは体を半回転させて、人差し指をリーンの額に押しつけた。案外強い力で、リーンはよろめく。
人差し指は離れない。
「昨日の話、覚えてないの?」
鳥肌が立つ。
──教団の企みの情報を、俺が提供したとして、リーンちゃんになにができるの?
そうなのだ。
『戦争』──そう言われたときに、それを案外リーンは素直に受け止めることができた。
あらかじめ知っていたかのように、そうだ、それだ、と心の中がピエロの言葉に共鳴する。
戦争を起こす。
それは、きっと、まぎれもない事実。
そう、幼いころからずっと自らを突き動かしてきたその不安の正体が見つかった。
やはり、私は間違っていなかった。
自分の心を疑おうと思っても疑えなかったリーンはすごく満足だった。
しかし──この戦争を見過ごせるかというと、話は別だ。
リーンに、教団は指針を変えたりしない。
でも、何もできないわけじゃ──
「世界全体を動かせるだけの政治的影響力も、自分の命を守れるだけの心得もない。いわばリーンちゃんはね、無力なの」
「無力じゃない!」
小声で言ったつもりだったが、言い終わった後に、ピエロだけではなく、店主や、奥の席の男さえも目を丸くしてこちらを見ていたことで、とても大きく響く声だったのだと気づかされた。が、後に引いたりするつもりはなかった。
「無力じゃない……力があるなんて、思いあがってもいないけど、私、私が無力だなんて思ったこと、ない」
ピエロは笑顔だった。
「何か訴えることができるんだったら、無力じゃないって否定する要素に十分なりうると思うから」
ピエロは笑顔だった。
「それに──それに、さすがに戦争を教団が起こす気だって、教団が宣言する前にみんなが知ったら……妄信せずに考える時間が与えられて、開戦せずに済むと思うの。間違った理屈じゃないと思う」
ピエロは笑顔だった。
しかしそれは、嘘だ。
「気持ち悪いったらありゃしないね!」
叫んだのは、リーンではない。ピエロの笑顔が驚きの顔に崩れる。
店主だ。
「ジェヒ……」
「そんな寒気だつ笑顔でこの子を見ないでもらいたい!」
店主はリーンにつかつか歩み寄り、抱きしめるようにして彼女をピエロの視線からかばった。
ピエロはあっけにとられているようだった。
「胡散臭い態度も小汚い服もずうずうしく寝るのも許せるけど、あたしの店でそんな顔しないでもらいたい! しかも、リーンの前で」
リーンを抱き締める力が強くなる。
リーンは店主の顔をうかがい見ようとしたが、胸と腕の間に顔が埋まり、それは不可能となった。
ピエロが訝しげな顔で見る。
「お、おねーさん?」
「この子を傷つけるのはあたしが許さないよ」
「おねーさん、勘違いして……」
「勘違いしてるもんか! この子をあんな顔で見ること自体、許してないんだからね!」
ピエロはおねーさん、と言おうとしてやめた。
店主は三十路を半分以上超えている。ちゃかすなと怒られるのがオチだろう。
「………ジェヒ、大丈夫」
リーンが恐る恐る言った。
「大丈夫。おっさんが気持ち悪いのはいつものことだし」
「うっ、さりげなく傷つく」
「それに、私は無力じゃないの。だから平気」
だから平気。
店主は困惑している様子だったが、とりあえずといった様子でリーンを放した。
リーンはにっこり笑うと、ピエロに向き直った。
「おっさん、無力じゃないから。だって」
どすっ、と鈍い音がした。なにかとピエロが下を見ると、野暮ったいサンダルの上からリーンのローファーのかかとが食い込んでいる。
ピエロは片頬を大きく歪めていた。おおげさすぎるほどだ。
「リー……ンちゃん?」
「ほら、痛いでしょ。私が無力ならおっさんを痛がらせることができないよ」
店主はもう何も心配していないようだった。
ピエロは微笑んで言う。
「そうだねぇ、前言撤回させてもらうわ」
リーンは満足そうにこぶしをピエロへ突き出した。その手をピエロがとる。
ピエロがバーから出ようとしたところで、振り返る。
店主は腕を組んで仁王立ちしていた。
「なんだい?」
「おばさん、リーンの何?」
店主は思いっきり不快そうに顔をしかめた。
「リーンは私の娘だよ。誰が何と言おうとね」
「ジェヒさんがリーンちゃんのママなら俺がやっぱりパパに」
「へへっ、お断り」
いきなり飛びこんできた男の声にリーンは嬉しそうに言う。
ピエロの腕に抱きついている。
店主が不機嫌な声色で言った。
「じゃ、あんたはなんなんだい? まさか、うちの娘を本当に夜の女にしたわけじゃないだろうね」
本気かどうか、そんなことを言われて、ピエロはわけがわからないという様子で首をかしげた。
リーンは苦笑する。
「そんなわけないでしょ」
「じゃ、なに?」
ピエロはもったいぶるように鼻で笑った。わざとらしくポーズをとってからドアに歩み寄る。リーンの表情はうかがえない。
「──未来の、リーンかな」
すぐに扉はしまった。
店主はそれをずっと黙って見つめ続けてから、不意に口を開く。
「………なんじゃ、そら」